第23話 インダス文明の滅亡

 最近、二人で時々立ち寄るハンバーガーショップは、国道三〇六号線沿いにある、亀島市内のファーストフード店では大きい建物だ。


 ユキやソラの帰り道からは外れているが、入りやすい店だったので時々、二人で放課後の勉強に利用している。なにしろ、学校の自習室は私語厳禁なので、私語し放題な点でもこの店は重宝している。


 でも、この店、いつの間にできたんだろう?


 ユキは最初、疑問に思った。まさに「いつの間にか」と言っても良いような感じに思えたのだ。でも特にそれ以上、気にしてはいなかった。亀島市はリニア新駅ができて以来、新しい店や建物が増えだしたからだ。


 昔からあるJR亀島駅と、リニアの新亀島駅を結ぶ道にはシャトルバスが運行され、それぞれの駅前には大きなビルが何棟か建てられつつある。


 数年前までは少子高齢化と過疎化が進んでいたのだが、三大都市圏から人口が流入して、人口は増加傾向だ。当然、子どもの数も増えており、ユキの通う亀島高校も普通科のクラス数が増えたり、二、三年生に転入生枠まで作られた。


 このように亀島市のものの流れと人の流れは、従来と大きく変わりつつあった。


 そんな亀島市のハンバーガーショップの二階の片隅の席で、ユキとソラの二人は世界史の教科書を読み返していた。


 ──インダス文明は、インダス川中流域パンジャブ地方のハラッパーと、下流域シンド地方のモヘンジョ・ダーロの二大都市を中心として栄えたが、当時の政治経済の仕組みは、必ずしも明らかではない。権力を象徴するような王宮や王墓、もしくは大神殿も、インダス文明ではまだ発見されていないからである。


 インダス文明の特徴は、きわめて綿密に計算された都市計画に見られる。すなわち、都市は城塞部と市街地に分けられ、それぞれ城壁で囲まれていた。

 市街地は、大通りと小路によって碁盤目状に区画され、家々は密集して建っていたが、煉瓦造りの下水道が完備され、定期的な清掃もなされていたらしい。


 ユキは言った。


「そういえば、インダス文明が滅んだ原因について、河村先生は授業でははっきり説明されなかったよね」


「古くからの説では、『アーリア人の侵入』だよ」


と、ソラは答える。


「あっ、そういえば、ここで例の『アーリア人』が出てくるのね」


「そう。気候変動のせいで、それまでコーカサス方面にいたインド‐ヨーロッパ語族に属する一部族が、温暖な地域を求めて南下、前二〇〇〇年頃にはパンジャブ地方に侵入してきたとされているんだよ」


「えっ、インダス文明はアーリア人の作った文明じゃないの?」


「違うよ、アーリア人はインダス文明を滅ぼした方だって。インダス文明を作ったのは、現在では南インドにいるドラヴィダ族だとされているんだ」


「あ~、私、全然思い違いをしてたよ」


 全くの思い違い。ユキには時々そういうことがある。


 前二〇〇〇年頃、インダス文明の地域にアーリア人が侵入してきた。侵入は五〇〇年くらいにわたり、アーリア人はパンジャーブ地方に定住する。


 インドのヴェーダ神話には、インドラ神が金剛杵こんごうしょをふるって悪魔が造った障壁を破壊して河水を流したという話が出てくるが、これはインダス文明が建設したダムをアーリア人が破壊したことを暗示している。それとともに、ヒッタイトから学んだ鉄器を使っていたことも暗示されている。金剛杵とはヒッタイトゆずりの鉄器なのである。


「ただね、確かに以前は『インダス文明はアーリア人の侵入によって滅ぼされた』って言われていたんだけど。実は、インダス文明があった地域は、現在は沙漠になっているんだ。それは前二〇〇〇年頃から起こったとされる気候変動によるものなんだけど、インダス文明滅亡の時期と重なるため近年、沙漠化説が唱えられるようになったんだ」


「それって、前に言ってた、地球の寒冷化に伴なうインド‐ヨーロッパ語族の移動の時期ともかぶるよね?」


「うん、そうだね。この気候変動によって、真っ先に移動したインド‐ヨーロッパ語族に属する一民族がアナトリアに入ってヒッタイト王国を建国した。一方で、インド・アーリア人の侵入によって、インダス文明は滅亡した。人間の歴史は気候変動の影響を強く受けているんだよ」


「そういえば確かに、インダス文明のあったあたりって、沙漠のイメージだよ」


と、ユキは言った。


「でも、なんか私、寒冷化と沙漠化って、頭の中で結びつかないんだよね。なんか暑いから沙漠化するんじゃないの?」


「いや、逆だよ、逆」


「逆?」


「暑いということは湿気が多いでしょ。だから、沙漠化しないわけ。寒いと逆、乾燥するから沙漠化するの」


「なるほど、そういうことか。理屈で考えたら確かにそうだよね」


と感心したように言うユキに、ソラは満足げにうなずいて話を続ける。


「前二〇〇〇年より以前は大西洋にあった低気圧帯が、北アフリカやアラビア半島、ペルシアと徐々に移動し、大量の雨をもたらして、インダス川流域を緑豊かな土地にしていたんだ。でも、前二〇〇〇年頃にこの低気圧帯が北上し、雨が減少することで、次第にインダス川流域が砂漠化していったとされているんだよ」


「そうか~。気候変動って、人間の力ではどうにもならない面があるもんね」


「インダス文明が繁栄していた時期に周囲の森林を伐採したことが、沙漠化の原因だと考えている学者もいるけど、出土品やインダス文明の遺跡などから、木はそこまで多用しなかったのではないかと推測されていて、決定的な要因とはなっていないんだよ」


 ソラは続ける。


「面白いのは、沙漠化説は乾燥によってインダス文明が滅亡したとする説なんだけど、逆に大洪水によって滅亡したとする説もあるんだよ」


「そうなってくると、もう何でもありだよね」


と、ユキ。


「結局、よくわかってないからだよ。インダス文明にはまだ分かっていないことが多すぎる。文字だって解読されていないし」


とソラは言ってから、気候変動の話に戻った。


「前一九〇〇年~一七〇〇年頃にかけての気候変動によって、夏モンスーンという季節風が激しくなるんだ。これによって雨量が増加し、インダス川流域に大洪水をもたらした結果、文明が滅亡したと考えられているんだよ」


「文明が滅亡するくらいの大洪水って、想像出来ないんだけどね」


「この大洪水によってモヘンジョ・ダーロに代表されるインダス文明の都市は放棄され、生き延びた人々は各地に移住していったとされているんだ。で、沙漠化説と大洪水説の他に、昔から言われているアーリア人侵攻説がある」


「なんか、遺跡から殺害されたとみられる人骨が発掘されているんだっけ?」


「うん、インダス文明の都市遺跡周辺には埋葬もされていない大量の人骨が発掘されているんだ。インダス文明では埋葬の習慣があったことから、他部族からの侵攻により殺戮された跡ではないかと考えられているんだよ」


「へ~え、そうなんだ」


「特にアーリア人侵攻説が出て来る理由としては、『リグ・ヴェーダ』という聖典に戦争の様子が記載されていたためなんだ。ところが、よく調査してみると、発掘された人骨から争った形跡がないことや、アーリア人の侵攻時期とインダス文明滅亡の時期にズレがあることがわかって、現在では支持者の少ない説にはなっているけどね」


「ふうん、結局、理由は特定できないんだね」


「って言うか、理由はおそらく一つじゃないよ。いくつもの原因が複雑に絡み合っていると思うんだ。文明が滅亡するっていうくらいの大事件って、それくらい複雑な原因があってもおかしくないでしょ。でもね、ユキちゃん、今わからないことも、きっと将来、分かるようになるって僕は信じているんだ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る