第15話 楔形文字のメモ

 河村先生は続ける。


「ただし、本気で外国の考古学を研究するつもりなら、日本国内の大学で勉強するだけでは無理ね」


「じゃあ、どうやって勉強すればいいのですか?」


と、ソラ。


「まずその国の国語──ヒッタイトの場合はトルコ語──が出来なきゃいけないし、考古学は『実物を見てナンボ』の世界だから、現地にいないというだけで不利なのよ。まずは現地に行かないと」


「えっ、すると先生もそうしたんですか?」


と、ユキはビックリして尋ねた。


「そうよ。だから私は、学生時代はトルコ語を必死になって勉強したわ。そして、大学を卒業した後、トルコにあるアンカラ大学の言語史学地理学部ヒッタイト学科の大学院に進学したのよ」


「うわぁ、本格的ですね!」


 ソラもまたビックリしたように言う。ちなみに、ソラが本当に驚いたようなもの言いをすることは普段あまり無い。アンカラ大学なんて、ユキにはどんなところか想像もつかない。


 この時、河村先生はユキやソラが今まで見たことのない、どこか遠くを見つめるようなまなざしをして噛みしめるように言った。


「期せずして私は、憧れだったヒッタイト学者の先生と同じコースをたどったわけよ。そして、何年かその先生の下でカマン・カレホユック遺跡の発掘作業に従事することもできた」


と、ここで河村先生は一呼吸置いてからつぶやくように言った。


「あの頃は今よりもっと未熟だったと思うけど、充実していた……アナトリアの大地に沈む夕陽は綺麗だったわ……」


 ユキは見たこともないトルコの大地に沈む夕陽を想像して目を閉じた。


「授業でも言ったとおり、これまでの通説では人類最初の製鉄は、鉄と戦車を武器に世界を支配したといわれるヒッタイトで始まり、帝国の滅亡とともにその技術が世界に広がった、というものだったでしょ」


「はい」


と、ソラは静かにうなずいたが、ユキは「そうだっけ?」という感じだ。


「ところがね、カマン・カレホユック遺跡の発掘調査で、ヒッタイトの時代よりさらに一〇〇〇年ほど古い、前二五〇〇年頃の前期青銅器時代の地層から、鉄製品が出土したの。しかも、出土した鉄の組成を解析したところ、それはアナトリアのものではなく、北コーカサスのものの可能性も出てきたのよ」


「ということは、世界で初めて製鉄技術を持ったのはヒッタイトではない、ということですか?」


と、ソラが尋ねた。


「そうよ。ヒッタイトは製鉄の発祥の地ではなく、それ以前にすでに北コーカサスの方で製鉄技術が確立していた可能性があるわ。ヒッタイトは、その製鉄技術を使って、アナトリアで鉄を本格的に生産していた、ということかしら」


「それって、教科書が書き換えられるような発見ですよね?」


「そうでしょ! でも、まあ教科書が書き換えられるのは通説となってからだろうから、もう少しかかるかな。そういうことは、歴史学の世界では時々あるのよ」


と言って、河村先生は微笑んだ。


「それにね、もう一つ発見があったの。鉄製品が見つかった地層の直下から、木材を大量に使用した建築遺構がたくさん見つかったの。木材を多用する建築遺構は、今までアナトリアではほとんど見つかっていないわ。そのような建築遺構も北コーカサスの方に見られるの。そこで、木材を多用する建築技術も鉄製品や製鉄技術とともに、アナトリアへ入ってきたのではないかと考えられるのよ」


「すごいじゃないですか。なんか、一つの民族が文化を伴ってコーカサスからアナトリアへ移動してきたイメージが湧きますね」


「でしょ。インド・アーリア系の民族の故地はコーカサス方面だと言われているから、理屈は合うのよ。これはすごいことだわ!」


 ソラはしきりに感動してるようだが、ユキは今ひとつ「すごい」理由がわからずきょとんとしていた。


「でもね、私の夢はそこまで。そこまでだったのよ」


 ところが、河村先生はそこで、はぁ~と大きなため息をついて言った。


「私は二人姉妹の姉でね。両親は私に『三〇歳になったら日本に帰ってきて、婿養子を取って家業を継いでくれ』って」


 思わずユキは声を上げた。


「え~、もったいない」


 後にして思えば少し失礼なもの言いだったのかもしれないが、ユキはその時、本心からそう思ったのだった。


「でも、私の両親にしてみれば、私がトルコで土を掘ってるよりも、自分たちの店を継いでくれるかどうかの方が大問題だったわけよ」


「そういうものなんですか?」


「そういうものなのよ。外国の大学院にまで行かせてくれた両親に逆らい、今後の仕送りを断ち切ってでもトルコで一人暮らしをする勇気が出なかった私は、泣く泣くトルコから日本へ帰ってきたのよ」


 そこで河村先生は息を継いだ。


「何もしないのも嫌だったから、地元で教員採用試験を受けたら運良く一回で受かったの。だから、星野君から最初に『どうして世界史の先生になったのか?』って訊かれたけど、ぶっちゃけ、たいした理由なんて無いのよ」


 河村先生は、授業終了のチャイムが鳴る直前に何とかその日の計画通りに授業を終わらせようとする時のように、少々早口になった。


「別に高校教育に対して見識を持っていたわけでもないし。自分がこれまで勉強してきたことが、多少なりとも役に立つ仕事って、地元ではこれくらいしか無いと思っただけよ……はい、それで終わりっ!」


 ユキは、河村先生の「終わりっ!」という言い方に、何か湧き上がる感情を無理にでも断ち切ろうという思いのようなものを感じた。


 やや間を置いて、ソラが静かに尋ねた。


「ご実家は何をなさっているのですか?」


「小さな工務店よ」


 ユキは何と言っていいのか、わからなかった。


 そこまで聴かない方が良かったかも知れないとも思った。


 下手に励まそうとしても、


「いや、いや、いや、地面に穴掘る仕事なら同じじゃないですか。それに、そこで何か遺跡を発掘出来るかも知れないし」


などと言えるような雰囲気ではなかった。


 あの河村先生にこんな葛藤があったなんて、ユキには想像出来なかった。


 それでもソラはいたって冷静に、


「先生、今日は参考になるお話をありがとうございました」


と、お礼を言って頭を下げた。ユキもそれを見て、あわてて頭を下げる。


 河村先生も静かなゆっくりした口調に戻って言った。


「こんな話でも、参考になったかしら?」


「はい、とっても」


 ソラはにっこりと笑った。ユキもあわてて微笑もうとしたが、どう見ても愛想笑いにしか見えなかったことだろう。


 最後に、河村先生は手元にあった大きめの付箋二枚に同じ楔形文字をさらさらと書いて二人に見せた。


「ほら、これが、ヒッタイト語の楔形文字。シュメール語からの分派の文字なのよ」


 ユキには紙の上に虫がたくさん這いずり回っているようにしか見えない。


「うわぁ、すごい。これ、ちゃんと意味があるんですか?」


と、ユキは素直に訊く。ソラはまたユキの耳元で、


「ユキちゃん、先生に対して少し失礼だよ」


とささやいたが、河村先生はまるで意に介さないようにユキの問いに対して、


「もちろんよ。これでも私は研究者のはしくれだったのですもの」


と、それまでとは違い少しおどけた口調で言って、その付箋を二人にそれぞれ一枚ずつ手渡した。


 ユキは、


「何て書いてあるんですか?」


と尋ねた。しかし、河村先生は、


「ふふ、内緒」


と小声で言って微笑んだだけで、何と書いてあるかは教えてくれなかった。


 担任室を出てから、ユキはソラに尋ねた。


「河村先生の話を聴く約束をしてたんだ」


「いや」


と、ソラは首を横に振って言った。


「えっ?」


「ユキちゃんが長い時間、叱られそうだったから、河村先生にかまをかけてみたんだよ。ほら、河村先生って、いつもバタバタしていて落ち着かないイメージでしょ。その上、人の言うことは素直に信じるみたいだから、ああ言ったら信じるんじゃないかって、計算したんだよ。そしたら案の定、引っかかってくれたけど」


と言って、ソラはちょろっと舌を出した。


 それを聞いたユキは思わず声を上げてしまった。


「ソラ君、黒~い!」


 ユキは何かソラの普段とは違う一面を見た感じがした。


「人聞きの悪いことを言わないでよ。僕は恩人でしょ」


と、ソラはユキを見て笑った。


 でも、ユキはその時、こう思った。


 河村先生なら叱られてもいいかな。よし、これからはもっと、授業をきちんと受けてみよう。


 それからユキは思いだしたかのように、


「あ、そういえば、さっきの楔形文字、何て書いてあるの?」


と、ソラに尋ねた。


「わからない」


「え~っ、ソラ君でもわからないことあるの?」


「そんな、それはさすがに買いかぶりすぎだよ。僕には河村先生みたいな学識は無いからね」


 結局、何が書いてあったか、この時のユキにはわからなかった。

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