3-16. 夢と夢じゃない境目
記憶の中で身動きができないまま二週間が過ぎた。不思議な夢を見た翌朝のような浮遊感に野枝実はとらわれ続けていた。
朝から雨模様の日曜日であった。いつもより早く目が覚めた野枝実は、布団の中でしばらく激しい雨音を聞いていた。
あの日、じっと抱き合って眠った後に目を開けたとき、すっかり陽が落ちた部屋の中は真っ暗になっていた。
先生は野枝実に背中を向けて眠っていた。その大きな背中が持っていたじっとりとした体温を思い出すとふわふわと、地に足のつかない幸せな言葉が浮かんでは消えたが、結局彼に声をかけることはしなかった。何かを口にした途端に夢から醒めてしまうような気がしたからだ。
夢というより、と野枝実は思った。昨日から今日にかけてのできことは甘い夢というより、暗い落とし穴の中で過ごした一日のように感じられた。
私はあの灯台の下に落とし穴を掘った。そこに先生を誘い、先生はそこに落ちてくれた。穴の場所を、その深さを最初から知っていて、気づかずに落ちたふりをしてくれた。それから先生は涼しい顔で穴を出て、服についた砂ぼこりをぱんぱんと払い、何事もなく元の毎日へと戻っていく。それだけのことのように思った。
肩甲骨が暗闇の中で影を作っていた。野枝実はそれをしばらくうち眺めると仰向けに直り、暗い天井を見上げてぼんやりした。遠くでオートバイが一台走っていく音がした。
ふと先生がこちらに寝返りをうったかと思うと、野枝実をぐっと抱き寄せ、その奥のサイドテーブルに置いたスマホに手を伸ばした。ブルーライトが浮かび上がらせた先生の顔はそのまなざしの奥にあった炎など跡形もなく、すっかり元に戻っている。野枝実はそれを隣で、彼の腕の中で見つめていた。最後に目に焼きつけておこうと思った。
砧公園いつ行こうか、とぶっきらぼうに言う彼の声にあっけにとられた。所々に予定が書き込まれたスマホのカレンダーを眺める先生から野枝実は目が離せないまま、その腕の中で次に会う日取りが決まった。
今朝、明け方に先生から届いたメッセージで目が覚め、それから眠れなくなってしまった。今日、昼過ぎでいいですか、と一言のみの素っ気ない内容だった。
カーテンをずらしてみると、窓がうっすらと結露している。窓の外はまだ朝の気配はなく、窓越しに深夜の鋭い冷気が部屋の中へ染み入ってくるようだった。近くから遠くに向かって街灯がぽつぽつと灯り、その向こうでどこかのビルのネオンが赤く光っており、結露した水滴でその赤をこすると滲んだ赤はにわかに鮮やかになった。
濡れた指をパジャマの裾でぬぐいながら、野枝実は再び寝床へと戻る。あたたかさの中で溶けていきそうに脱力した。まさか本当に連絡が来るとは思っていなかったのだ。
部屋のあかりもつけないまま返信の文面を考えて送り、雨が次第に近づいてくるのを聞きながらしばらく目を閉じていた。カーテンの向こうが明るくなったころにのそのそと起き出し、簡単な朝食をとったころには、テレビの音に混じって遠くでどろどろと雷雲の音もしていた。夢と夢じゃない境目にいるような音だった。
アパートの外階段の屋根にも雨が容赦なく打ちつける音が聞こえる。簡素な屋根なので風がそよぐたびに廊下に雨が吹き込んでくる。野枝実が支度を済ませて外に出たころには、玄関の前はすでに水浸しになっていた。
外階段の途中で傘を差しながら、隣家の屋根に打ちつける雨粒が束のようになって風に流されてゆく様子や階下の道路が時折水しぶきを上げる様子をしばらく眺めていると、雨音に混じって遠くからエンジンの音が近づき、見慣れた黒のボルボが真下で停まった。
野枝実が手すりから身を乗り出して手を振ると、車中の先生が気づいて笑顔を見せた。おいでおいで、と手招きをしている。
「おはよう、すげー雨だね」
雨から逃れるように急いで車に乗り込みドアを閉めると、雨音がくぐもり、車内に小さく流れているラジオが聞こえてくる。濡れた傘をまとめながら野枝実は言った。
「こんな雨だし、今日はおうちでゆっくりしませんか」
「ん?」
先生が微笑みながら曖昧な反応をする。聞こえなかったふりをしたのか、雨音に混じって本当に聞こえなかったのかわからない。わからないので野枝実は沈黙し、先生も沈黙した。誰にも見えないように手をつないでいるような、くすぐったい沈黙だった。
曖昧な反応をしておきながらしっかりと彼の自宅に到着し、駐車場でエンジンを止めてから先生はなかなか車を降りようとしない。腕を組んだまま、じっと考え込むように外を眺めていた。雨の音がやけに大きく聞こえる、なんだか気が気でない沈黙だった。
「雨ですね」間を持たせるために野枝実が口を開いた。
「雨だねえ」先生は雨に滲んでほとんど見えなくなったフロントガラスの向こうを見据えていた。その背後では絶え間なく降りつける大雨がガラス窓を濡らし、涙のような滴が幾筋も滑り落ちている。
程なくして先生は、よし、と膝を叩いて言った。
「いついっても濡れることには変わりないか」
胸の奥が少しだけ攣るような、奇妙な響きを持っていた。
野枝実は努めていつも通りに、水滴の滴る傘を広げる準備をして二人同時に車外へ踏み出した。いつも通りに、いつも通りにと思いながら、積み重ねたいつもなど存在しないことに気づき、一体どうしていればいつも通りなのかわからないままであった。
後ろ手に閉められた玄関の鍵がかちゃ、と音を立てた。コートや髪に染み込んだ冷たい雨が湿った匂いを連れてきて、室内の空気と混ざり合ってむんとわき立つ。それは先生が洗面所から持ってきたよく乾いたタオルの匂いと更に混ざり合って、晴れと雨が混在するような不思議な匂いとなって野枝実のそばにたち込める。
この日、あらゆる抑圧を引きちぎった先生は激しく野枝実を抱いた。
こぼれ落ちていく今日までのできごと。戸惑いながら野枝実は、初めて先生と体を重ねたときから自分の中にある境目の存在をうっすらと思い出した。
せーの、で車を降りてから二人でエントランスまで雨の中を小走りに移動したことも、エレベーターの中でお互いの上着についた水滴を払ったことも、ソファに隣り合ってあたたかいお茶を飲んだことも、そこで野枝実が町田さんと一緒に行ったお店の話をしてみたことも、先生がその話にじっと耳を傾けていたことも、それまでのできごとが一瞬にして手の届かないくらい遠くの過去になる。
夢と夢じゃない境目。背後から容赦なく貫かれる快感に耐えきれず崩れ落ちたとき、野枝実はその境目にできた亀裂にゆっくりと落下していった。
分厚い雨雲が空を覆って、昼下がりだというのにどんよりと薄暗かった。灰色の空模様が乱れきった二人の表情を隠し、窓に打ちつける雨音が絶え絶えの吐息をかき消した。
春が来てすぐに夏が来た。芽吹いた植物がみるみる育ち、灼熱の中で生を発揮した。はっさくの季節が終わり、桃のみずみずしい果汁で顔中をべとべとにした。真夏のアスファルトに伸びる二つの濃い影が一つの生き物のように重なり、やがて灼熱とともに蒸発した。甘い甘い飴を口移ししたのち、二人とも甘さと暑さに溶けてなくなった。虫たちがけたたましい羽音を立ててあたりを飛び回り、秋の訪れとともに土に還った。
秋が来てすぐに冬が来た。ものすごい速さで雲が流れてゆき、ざっと降ってすぐにやんだ大雨がどっしりと湿った土に染み込んですぐに乾いた。空が突き抜けるように高くなったり押しつぶされるように低くなったりした。伸びた髪が耳元でかすかな音を立てて揺れた。誰も知らないため息が少しだけ白くなってすぐに消えた。白く熱い吐息を吐き出す部屋の外で、薄曇りの空に星が一つだけまたたいた。
目が、髪が、唇が、手が、腰が、胸が、皮膚が、野枝実のすべてが先生のためにあった。汗だくになって、先生も汗だくになって、野枝実は何度も崩れ落ちた。
している間はなんとなく他のことを忘れられて、なんとなく気持ちいいもので、きっとそれは誰が相手でも同じことだと思っていた。そのような野枝実の安易な達観を先生は根本的に変えていった。
器用な手、指の動き、舌のやわらかさ、唇の感触、かすれた声、先生の仕草の一つ一つは野枝実の答え合わせを軽々と越えてゆく。最初は知ったかぶりをしていた野枝実だったが、春の始まりくらいにはそれすらも放棄した。
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