3-14. 知らなかったころには戻れない

 たくさんの人がそれぞれの方向に歩いていた。足早に家路を急ぐ人、これから集合してどこかへ出かける人、規則正しい人の流れ、野枝実もその一人として駅前のロータリーに降り立った。


 先生は車で町田さんとの待ち合わせ場所に送り届けてくれた。助手席の扉を閉めてから野枝実は軽く会釈し手を振った。車中で同じく軽く手を振り返す先生は黒い影となって顔までは見えず、ロータリーを抜けた車はすぐに他の車に溶け込み、やがて見えなくなった。


 かさついた風が少しかさついた顔を撫ぜ、ん、と野枝実が何気なく唇を結んだとき、そこから全身に弱い電流が走った。先生の部屋を出るときに別れがたく何度もねだった彼の唇の感触を、つい先ほどのことのように記憶していた。

 それでも外に出さえすればいつもと変わりなく毎日が動き出す。改札から少し離れた場所で流れ出てくる人たちを見ているとその中に見慣れた顔を見つけ、果たしてそれは町田さんであった。野枝実の姿を認め、笑顔で駆け寄ってきた彼女に手を振ったとき、分断された昨日と今日がようやく繋がった。


 今日、誰かと会う約束があってよかった。明日も明後日もバイトがあってよかった。このまま一人で部屋に戻ったら気がおかしくなってしまいそうだった。


 町田さんに案内された居酒屋はとても賑わっていた。カウンター席の中央に予約した二席がぽつりと空いているのを見つけ、それぞれの隣席に気を遣いながら滑り込むように二人でそこに腰かけると、野枝実は町田さんに遠慮がちに尋ねた。

「すごい賑やかですね、有名なお店なんですか」

「どうなんだろう、私は偶然見つけたから有名かどうかわからないんだけど、まあ今日は土曜日ですしね」

 そうか、今日は土曜日。昨日は金曜日。


 透明のグラスになみなみと注がれた冷酒、そこに頭上の間接照明が映し出されてほのかに揺れるのが美しい。こぼさないようにグラスに口を寄せて一口飲むと、きりりと冷たく引き締まった純米の風味が喉を潤しながら灼いていく。


 おいしい。上気するような幸せな味だった。噛みしめるように野枝実が言うと、町田さんも嬉しそうに笑った。

「荒木さん、おいしそうに飲むね。次はこれ飲んでみたいんだけど、一合頼んで半分こしない?」

 いつの間にか敬語をやめている町田さんはほんのりと頬を紅潮させてかわいらしい。物理的な距離も心持ち近くなって、友達になれたようで野枝実は嬉しい。

 わいわいと賑わう薄暗い店内はどこか非現実的で、そこで飲んでいるお酒が少しずつ体に沁みてくるといよいよ夢心地になってくる。

 今までのすべてが夢だとしてもそれでいい。その夢だけで一生やっていけそうな気がする。


 前向きに飽和した頭脳とは正反対に、身体は昨日の何もかもを記憶していた。何度も吸いつく彼の唇の感触を、熱をもった吐息を首筋が覚えていた。片手でブラジャーのホックを外す器用な手つきを背中が覚えていた。もったいぶるように開かれ、軽々と持ち上げられる感覚を太腿が覚えていた。大きな両手でとらえられたときの力強さを腰骨が覚えていた。後ろからゆっくりと腕を引かれ、絡みつくように抱きすくめてきたときの、汗と唾液が混ざり合う味を覚えていた。じっとりと野枝実を見下ろす低温の炎のような彼のまなざしを覚えていた。彼の上で夢中で動いていたとき、手をついた腹部からじわじわと噴き出る汗の感触を手のひらが覚えていた。


 町田さんと別れたころには、野枝実はあらゆる記憶にがんじがらめになって身動きがとれなくなっていた。何をしていても、何を考えても、何も考えなくても、忘れようとすればするほどいつもと変わらないはずの何もかもが先生との記憶に結びつき苦しくなった。

 帰り道の雑踏の中で何食わぬ顔をしながら、ぼんやりと帰路につく野枝実はもはや一歩も動けない。


 身も心もすべて昨日に置いてきた。こうして地に足をつけて確かに歩を進めていることのほうが虚構であった。今までのすべてがひっくり返ってしまった。


 帰宅した部屋は時間が止まっていた。ハンガーに無造作に干されたバスタオルやベッドに脱ぎ捨てられた部屋着がそのままそこにあり、期待と動揺の入り交じった慌ただしい足音の気配がまだそこにある。


 まだ何も知らなかったときの部屋。それらをうち眺めていると再び胸の奥にぐっと圧力がかかって動悸が乱れた。何一つ片付けることができないまま、野枝実は上着も脱がずにしばらく部屋の中に立ち尽くしていた。

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