3-13. 昼下がりの決壊
夢の中にいるような、でもどこか懐かしく、昔から見ていたような天井が視線の先にある。
野枝実が目を覚ましたとき、隣で眠る先生と野枝実の体温が混ざり合って布団の中はいっそうふかふかにあたたかくなっていた。
先生は変わらず仰向けに眠っていたが、彼が野枝実に枕を譲っていたことにそのとき気づいた。平らなベッドで首から背中までまっすぐになっている先生の姿を見て野枝実は慌てて起き上がるが、それにも気づかず眠り続けている彼をどうすることもできない。
野枝実は彼を起こさないようにゆっくりとベッドから起き出し、リビングに置いたトートバッグからお茶のペットボトルを取り出して一口飲んだ。明け方のパーキングエリアで買ったあたたかいお茶は冷めきり、乾いた喉を潤すのに心地よい温度になっていた。
バルコニーから差し込む陽差しに野枝実は目を細める。太陽は上りきってすっかり一日が始まっていた。サイドボードに置かれたデジタル時計はすでに昼時を表示している。窓を開けると、鳥のさえずり、遠くを走る車のエンジンの音、どこかの食卓で食器がかちゃかちゃいう音、ピアノの音色、子どもの笑い声、かすかな電車の走行音。街が動いている音と匂いが冷気とともに部屋に入り込んできた。五階建の五階、見晴らしのいい高台に建つマンションであった。
「寒くない?」
いつの間にか起き出してきた先生が大きなあくびをしながら背後を横切っていく。眠たそうな目、寝癖のついた髪、起き抜けそのものの無防備な姿に目を奪われながら、確かに容赦のない冷気が入り込んでくることに気づき、野枝実はそっと窓を閉めた。
寝室にはっさくを皿ごと持ち込み、あたたかいほうじ茶も淹れて、ベッドの端に腰かけて二人で食べた。冷蔵庫の中でよく冷えたはっさくは果肉が引き締まってみずみずしく、甘さもいっそう引き立つ。甘酸っぱい水しぶきのような果汁とぷりぷりした果肉が口の中で弾け、全身が少しずつ目を覚ましてゆく。
大ぶりのお皿に盛られた鮮やかなはっさく。ガラス製のサイドテーブルの上に置くとその果肉は、すぐそばのベランダから差し込む朝陽を反射して宝石のようにぴかぴかしていた。一晩中起きて朝を迎えた野枝実にとってその鮮やかな色はにわかにまぶしい。
そういえば、一人暮らしを始めてから果物など一度も食べていなかった。それに気づいた野枝実はしみじみしながら言った。
「小さいころのことを思い出すなあ。風邪を引くと母が果物をむいてくれたんです」
「いいな、体にしみ渡りそうだね」
先生とはまた違う、きびきびとした手際のよさで台所を司る母の姿が思い浮かんだ。
はっさく、夏みかん、ピンクグレープフルーツ、白桃、いちご。果物が好きな母はよく毒見といってつまみ食いをして、むいているうちに形の崩れたはっさくや傷んだところがあるいちごを数個ひょいと自分の口に入れ、残りの綺麗な実を全部野枝実に食べさせてくれた。
隣に腰かける先生に体をもたせかけると、ふんわりと腰に手が回ってきた。少しずつ少しずつフィルターを燃やす煙草の小さな火種をうち眺めながら、野枝実は先生の腕の中で彼の穏やかな息づかいを聞いていた。
部屋の中に満ちる太陽の匂い、はっさくのみずみずしい匂い、遠くで車が一台滑っていく音。煙の筋の奥にはレースカーテン越しの空があった。遠くの電線にとまっていた小鳥が一羽飛び立ち、たわんだ線がほんのわずかに揺れるのが見える。静かな、穏やかな冬晴れの日だった。
「もうひと眠りする?」
まだ眠たそうな先生の声の奥に試すような気配を感じる。穏やかだった心中がにわかにざわつき、そのざわつきが悔しかった野枝実は衝動的に彼に唇を合わせた。寝起き間もない彼の唇は思った以上に無防備で、わずかな動揺が見えた。野枝実はそれが勝ち誇ったような気分で嬉しかったが、歯がかちっと当たる音がするようなぎこちないキスになってしまった。
野枝実が照れ隠しに元の場所に、彼の胸の中に戻ると心臓の音があった。電気を消して眠りにつく直前のため息のような、無風の湖面に浮かぶ小舟のような、穏やかな音がしていた。先ほどよりわずかに短くなった煙草が、彼の指の間で軽い煙をくすぶらせていた。
先生は何も言わずにしばらく時間をかけてそれを吸いきり、灰皿に手を伸ばして消すと、そのまま野枝実を抱きすくめた。今までとは違う、その後の意図を持った抱擁。それに気づいたときにはすでに先生の大きな体に包み込まれてしまっている。
先生は野枝実の顔にかかった髪を指でかきわけると、迷いのない動きで唇を重ねた。長いキスだった。
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