3-12. 2008年1月31日[2]

 この日はセンター試験を抜粋したプリントを解いた。静まり返った教室には筆記用具の擦れる音、プリントをめくる音。そして後ろからゆっくりと小さな足音が近づいてくる。それまでの集中は途端に切れ、野枝実はそれを気取られないように静かに息を吸って吐いた。

 その足音が机のすぐそばを通り過ぎるとき、かすかに揺れる周縁の空気が煙草の匂いを連れてくる。先生が自分の席を通り過ぎたことを確認した野枝実はそっと顔を上げる。先生の後ろ姿、背中、後ろに組んだ手、その指先を凝視した。アイリの言う通り、やはり指輪はしていなかった。

 指輪のことを考えていたら先ほどのアイリとの会話を思い出して心臓がぎゅっと縮まった。


 童貞。童貞って。湊先生は明らかに会話の内容を聞いてそれに反応していた。すなわち先生は童貞の意味を知っているということで、いやそれは大人だから当たり前か。というか、そもそも先生がその、アレなわけがない。結婚しているということは、つまりそういうことだ。奥さんとそういう経験があるということだ。奥さんの前に付き合っていた彼女がいたとしたら、その人ともきっと。


 その詳細は宇宙の果てくらいに未知の世界の話だけれど、何かものすごく秘密なことだということはわかる。どうしても秘密にしておきたいくらい恥ずかしいことなのだということはわかる。

 先生が、そういうことを、したことがある。うわあああっ。答案を目の前にして何食わぬ顔をしながら、野枝実の心中では叫びが止まらない。


「なんでこうなるか説明できるってひと、だれかいるか?」

 解答のプリントで一通りの答え合わせを終えた後、最後の大問を掘り下げた。野枝実は正解だったものの、どうしてその解答を選択したかの根拠には自信がなかった。

 あ、わかったかも。しばらく答案を見つめてふとひらめいた野枝実は、ぱっと顔を上げた直後、しまった、と思った。教室の皆が下を向く中で野枝実ただ一人が顔を上げ、その瞬間に先生とばっちり目が合ってしまったからだ。

「荒木、わかる?」

 頭が真っ白になる。おぼろげに浮かんでいた筋道がすべて白紙になり、野枝実は震える唇をぱくぱくさせるばかりだった。

「えっ、俺?」

「お、流星もわかるか」

 やっべ、と低い声が聞こえ、周囲で小さく笑いが起こった。

「いいっす、どうぞ、そっちの荒木さんがお先に」


 何が起こったのかわからない野枝実は、目だけをせわしなく動かしながらやがて状況を理解した。声の主は同じクラスの新木流星だということ、アラキと呼ばれて彼のほうが咄嗟に返事をしてしまったこと。当てられたのは自分ではなかったことに気づいて慌てていること。それによって自分とは無関係に小さな笑いが起こっていること。その一つ一つを噛みしめていると、まっさらになった頭の中に断片的な言葉が継ぎ足されていった。

「ゆっくり考えていいよ。もしわからなくても流星が答えてくれるから」

 野枝実を促す湊先生に、やっちまったー、と流星は更に声を上げ、周辺で再び笑いが起こる。その空気に後押しされたように、野枝実の心中の温度がすっと下がっていくのを感じた。結論を急かされず、待っていてもらえている安心感があった。しどろもどろではあるが慎重に、言葉を選びながら説明していると、口にする言葉がすべて自分のものになっていく実感があった。


「うん、完璧」先生が歯切れよく言うと「俺も同じこと言おうと思ってたんすよ」と流星がすかさず茶々を入れて教室に中くらいの笑いが起こり、野枝実はようやく難を逃れた。

 流星と同じ名字で本当によかった。もしかしたら、本当にもしかしたら、パニックになった自分を見かねて流星は助けてくれたのだろうか。万が一そうだとしたら、なんというか、なんと言ったらいいのか、なんだろう。


 生きていてよかった。冬の始まり、教室に差し込むあたたかい陽差し、受験は近づいているものの、なんだか和やかなクラス。目の端でともちゃんが笑っているのも見えた。今日の帰りはこのことについて話そうか。世界が少しだけ優しくなったような、涙が出そうなほどの希望が全身に満ちてふくふくした。


 シャープペンを握りしめていた手をほどくと、尋常でないくらいの手汗をかいていた。その汗はノートの表紙を湿らせ、プリントを湿らせてその表面を波打たせている。

 はにかんで唇を噛みながら野枝実は、汗まみれの手を再び握りしめた。

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