3-12. 2008年1月31日[1]
「ねーねー、湊先生っていつも結婚指輪してたっけ?」
休み時間、自席で次の授業の準備をしていた野枝実の目の前にアイリがしゃがみ込む。それから思い出したように「あ、教科書ありがとね」と数学の教科書を野枝実に差し出した。前の時間に貸した教科書を返しに来てくれたのだ、と野枝実はそのときようやく思い至った。アイリはどこかから飛んでくるように突然現れるので、どうしてここに来たのか、いつの間に来たのか、理解するまでいつも時間がかかってしまう。
あたりを見回して周到に警戒しながら野枝実は答えた。
「ううん、先生は指輪してないよ」
湊先生の話をするとき、野枝実は極めて小声で話すようにしている。
「さっすが野枝実ちゃん、先生のことよく見てる〜!」
野枝実のさりげない努力も虚しく、遠慮のない声量のアイリに野枝実は「しーっ」と人差し指を立てた。
「ごめんごめん。さっき授業のときにね、ふと思ったの。そういえば先生って結婚してるのに結婚指輪してないなって。普段はしてるんだったら、もしかして最近離婚したのかなって思ってさー。だとしたらチャンスだよって野枝実ちゃんに教えてあげなきゃって思ってさー」
アイリの不謹慎な想像に野枝実は声を潜めて笑った。「余計なお世話ですー」と返しつつ、そこから指輪の謎が気になって仕方ない。早く実物を見て確かめたい。
「先生って指輪持ってないのかなあ。奥さんにも買ってあげてないのかなあ」
「普段は家に置いてあるんじゃない? 結婚してるけど指輪はしてない先生って他にもいるじゃん」
「あー確かに。とーやま先生とかそうだよねー。でもさ、家に指輪置いたままにしてるのはありえないでしょ! さすがにもったいないでしょー」
「えー、じゃあ指につけずに持ち歩いてるってこと? どうやって?」
「それは、指輪に鎖を通してネックレスとして身に着けるんだよ。そのほうが秘密感あるじゃん。湊先生もさ、準備室で一人になったときにこっそり眺めてるかもよ。こうやって……」
アイリは襟元からネックレスをつまんで出すような仕草をしてうっとりと眺めてみせる。やだー、と野枝実は笑ったが、果たして結婚指輪に秘密感など必要なのだろうかと思った。
不毛な議論は続く。程なくしてお互いの主張が行き止まりとなったとき、アイリはぱっと目を輝かせた。大きな瞳が漫画のようにきらきらする、いいこと思いついた、というときの顔だ。
「そうだ、昔は指輪してたか聞いてみようよ!」
「えっ、やだやだ、そんなこと聞けるわけないじゃん」
「先生に直接聞くわけじゃないよ。絶対軽くあしらわれて終わりだもん。私が先輩にメールして聞いてみてあげる!」
「もうやめてー」野枝実は机に突っ伏した。先輩という響きは頼もしいが、こういう文脈で登場する「先輩」は威圧的で怖いのだ。
えー、と手持ち無沙汰に携帯をいじっていたアイリは、はっとしたように切り出した。
「でもさ、よく考えてみたら結婚してるってやばいよね。アレ確定ってことじゃん」
「え、何が?」
「結婚してるってことは、経験あるってこと」
「ど、どういうこと?」
「アレじゃないってこと」
「アレって何?」
勘の悪い野枝実に、あーもー、と痺れを切らしたアイリは意気込んだように大きく息を吸うと、いっそう声を張って言った。
「だからー、どーてーじゃないってこと!」
童貞。多感な少年少女たちにとって強烈なインパクトを持つその一語は、二人の付近で談笑していた男子たちを一斉に振り返らせ、その周辺の女子たちを静まり返らせた。
ぴたりと静止する教室の空気。アイリとともに好奇の視線を一気に浴びた野枝実は、瞬間湯沸かし器のように全身の血液が沸騰する。顔面がひりひりするほどに熱くなり、猛烈に口が渇き、手の平と脇の下に一気に汗をかいた。
「意味わかった?」
アイリは降り注ぐ周囲の視線を気にする様子もなく、いたずらをした猫のような勝ち誇った顔をして野枝実をのぞき込んでいる。
何言ってんの、もうやだ、めちゃくちゃ恥ずかしいよ。泣きそうになりながらアイリにしがみつこうとしたとき、彼女の頭が出席簿で叩かれた。どこからともなく現れたそれは、アイリの頭上でポンと小気味よい音を立てる。
「なんつー話をしてるんだ、おまえさんは」
見上げると出席簿を手にした湊先生が苦笑していた。アイリは大きな目を見開き、ぽかんと口を開けたまま絶句していた。
いつの間にか目の前にいた先生に、野枝実もまた絶句していた。近い、先生が近い、やばい。顔が真っ赤だし前髪も変なのに。動けないまま野枝実が混乱していると、
「これはなんだ、これは」
小声で言いながら先生が爪先でアイリの携帯をこつこつと叩くとアイリは、ひゃっ、と体を震わせて漫画のようなリアクションをした。至近距離に現れた先生の手に、野枝実も小さく体を震わせた。
「没収ですか?」
「見なかったことにしましょう」
「やったー見逃してくれたー、神だー」
いいから早く教室戻れ、と湊先生がたしなめるとアイリは何を思い出したのか火がついたように笑い出し、一人爆笑しながら教室を後にした。
「すごいな、あいつは。嵐のようだな」
あっけにとられた様子で湊先生が教室に向き直って笑うと、教室のどこかからまばらな笑いが起こった。
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