3-11. 先生の部屋
真っ白な壁に囲まれた浴室で体を洗っていると洗面所の扉が開いて先生が入ってくる気配がした。すりガラス越しに映る大きな影に野枝実が硬直していると、
「着替え、ここ置いとくから」扉越しに素っ気ない声がして影はすぐに遠ざかる。
洗濯機の上に畳んで置いてあったのは先生の普段着のようだった。黒い無地のTシャツは五分丈ほどになり、スエットは腰ひもをぎゅっと締めてようやく腰からずり落ちてこなくなったが、どちらもさらさらと着心地がよい。その上からボアつきのパーカーを羽織ると、首元から晴れた日の太陽の匂いがほのかに立ちのぼった。
無造作に乾かした髪を心もち整えて、ぺたぺたとリビングに戻ると先生は台所に立っていた。
「食べる?」振り向いて見せてくれた丸々と大きなはっさくは、手首まで濡れた先生の手の上で水滴を玉のようにぷちぷちと弾いている。
「職場の人が昨日たくさん持ってきてくれて、分けてくれたんだ」
「おいしそう、私も手伝います」
「じゃあ、これむいてお皿にのせてって」
真っ白いまな板を前にした先生の隣に立ちながら、野枝実ははっさくをむく先生の手を見ていた。分厚い皮の頭を薄く切り落とし、放射状に切り込みを入れていく。切り込みに爪先を差し込んでわしわしと剥いていくと、白い繊維に包まれた大きな実が現れる。指を入れて実をほぐしていき、身の上部に手際よく切り込みが入れられる。切り込みの入った実が一つ一つ野枝実の目の前に置かれていき、それらの皮を剥いて目の前の皿に盛りつけていくのが野枝実の仕事だった。
並んで黙々と共同作業をしていると、シンクに新聞紙のごみ入れを発見した。かつて理科準備室で目にした彼の生活感、今その生活を共有していると思うとしみじみとなり、
「先生は普段自炊するんですか」
「あんまりしない、味噌汁くらいは作るけど」
そこで先生は唐突に言葉を切り、しばらく黙った後また唐突に「飴色玉ねぎ」と口にした。
「飴色玉ねぎをうまく作りたいんだけど、あれってどうしたらいいの」
「え、飴色玉ねぎってあの飴色玉ねぎですか?」
「うん。カレー作るときに入れるんだけど、毎回うまくいかないんだよね」
「……強火で炒めたりしてませんか」
先生は包丁を動かす手を止め、虚空を見つめてしばし沈黙した後はっとして「してる」と野枝実に向き直った。
「これでもかってくらい弱火で、じっくり時間をかけてゆっくり炒めるのがこつですよ」
自分もつい最近できるようになったというのに野枝実はわざとらしく講釈を垂れてみる。焦って結果を急いではいけないのです、などと偉そうなことも付け加えると先生は「おっしゃる通りです」と苦笑する。夜更けのコンビニのときと同じような顔をしていた。もしかしたら計算や駆け引きは最初から不要だったのかもしれない。
「今度作るときにやってみよ」そのように言って満足げな笑みを浮かべる先生に、野枝実は恐る恐る踏み込んでみた。
「先生、この先誰かと暮らす予定とかないんですか」
「誰かって?」
「彼女とか、結婚とか」
「ないない」先生は笑い、「もうそんな予定はないです」と付け加える。
えっ、そうなの。野枝実はすかさず食い下がった。
「先生、彼女いないんですか」
「いません。もうそんな歳じゃありません」
「ほんとに? どれくらいいないんですか?」
身を乗り出す野枝実の口の中に、うるさいよ、とはっさくの実が詰め込まれる。学生のようにあしらわれ渋々自分の仕事に戻りながら、ぷりぷりの果肉を咀嚼すると涙が出そうな甘酸っぱさが口内に広がった。
「先生も一ついかがですか」
甘酸っぱい実をようやく飲み込んで先生に声をかけると、ちょうだい、と野枝実に肩を寄せてくる。ちょうど皮を剥き終わったつやつやの実をはい、と口の前に差し出すと、ぱくっと一口で持っていった。果汁に濡れた指先が、ほんの少しだけ先生の唇に触れた。
先生は果肉を頬張りながら、うまい、と再び包丁を動かし始める。嬉しそうなその横顔に、野枝実は小さく声をかけてみた。
「先生、もしかして相当もてるでしょ」
「ん?」
再び包丁を止め、少し目を丸くして野枝実を深く見つめる。そういうところです、と言いたかったが言えなかった。
ぽつぽつと話をしながら作業をしていると目の前の皿がはっさくでいっぱいになったので別の皿に取り分け、やがてその皿もいっぱいになったので、大きな琺瑯の保存容器に今日食べる分以外をまとめて入れて冷蔵庫にしまった。
いつの間にか四つもむいていたことにそのとき気づき、二人で力なく笑った。一晩中移動して疲れきり、何がおかしいのかわからない笑いだった。
仕事を終えた先生は、俺もシャワー浴びてくる、と野枝実に背を向けた。
「よかったら先に奥で休んでて」
ソファの背後にある引き戸を開けると小ぢんまりとした寝室があった。この部屋にはまだ朝は来ておらず薄暗く、レースカーテンの向こうの空は夜明け前の気配であった。
男の人の一人暮らしというともっと、無機質で無骨な印象だったけれど全然違う。背の高い本棚にびっしりと収納された文庫本や漫画、DVD、すくすくと背の高い観葉植物、部屋のところどころに置かれた趣味のいい雑貨、すっかり一人暮らしを楽しんでいる様子の部屋であった。長い年月をかけて染みついた一人暮らしの癖ではなくて、誰かと一緒に暮らした気配を残した小綺麗な癖を感じた。大きく深呼吸をすると、部屋に染みついた煙草の匂いが鼻腔にはりついた。
ベッドの端に腰掛けるとスプリングのちょうどいい反発と、からっとした白いシーツの感触がはね返ってくる。野枝実は恐る恐るそこに寝転び、首を動かしながら改めて部屋を見回した。
ベッドの隣のサイドテーブルに陶器でできた赤い灰皿と、開いたまま伏せてある吉村昭の文庫本が置かれている。手を伸ばして手持ち無沙汰にぱらぱらとめくってみたものの何一つ頭に入ってこず、しばらく持て余していると洗面所の扉が開く音がし、廊下から足音が近づいてきたので慌てて元に戻して起き上がった。
「起きてたのか。遠慮しないで入って」
半乾きの髪をぱさぱさと手で乾かしながら、先生は野枝実の反対側から布団をめくってさっさとベッドに入り込む。無造作に促され、硬直しながら野枝実もそこへ入り込んだ。
先生と隣り合っている。肩と肩が触れ合うか触れ合わないかぎりぎりの距離の中で野枝実は間を持たせようと、
「広いベッドですね」
「うん、ダブルにしたんだ。シングルだと狭いかなと思って、引越ししたときに思いきって……」
先生は大きなあくびをしてゆっくりと息を吐く。そのままベッドに沈んでいきそうな長いため息だった。
「やっぱり夜通し運転すると疲れるね、一瞬で寝れそうだ」
「そうですよね。すみません、ずっと運転お任せしてしまって」
返事の代わりに小さないびきが聞こえる。あれっ、と野枝実が首を動かすと先生は仰向けで胸の上に指を組んで、車中のときと同じ姿勢で目を閉じていた。
よほど疲れていたのだろう、本当に一瞬で眠ってしまった。がちがちに強張っていた全身の力が抜け、先生の寝息に合わせて野枝実も小さくため息をついた。寝息に混じって歯磨き粉のクールミントの匂いが漂ってきた。
彼の寝顔に拍子抜けしながら、野枝実はどこかで安心していることに気づく。もしこのまま更に先生が寝返って野枝実の上に覆いかぶさってきたとして、その心の準備はまったくもってできていなかった。そんなことはなくてもいいとすら今は思う。
先生の寝顔を見ているとそれくらい穏やかな気持ちが起こった。黒々と太い眉毛の下にある疲れたまぶた、短いまつ毛。まっすぐに伸びた大きな鼻筋の下にはうっすらとひげが生え始めている。
その下にくすんだ色の唇があった。薄くてやわらかい、欲のなさそうな上品な唇。この唇が、一度でも自分のために意思を持ったということが未だに信じられない。
ぼんやりとした回想の隙間に疲労が染み込んだ。のしかかるような眠気に身を任せ、野枝実もいつの間にか深い眠りに落ちていた。夢の中にいるようなあたたかさだった。
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