3-10. 旅の終わり

 いっそう深まった夜の中、二人は来た道を戻った。

 メーターパネルに照らされた運転席がほのかに浮かび上がっている。先生の横顔、その大きな輪郭は真夜中の海で漁火を焚く船にどことなく似ていた。


 先ほどのコンビニに再び立ち寄ると、先ほどのおばさんがまだレジにおり、二人を見るとおかえりなさいと声をかけた。

 店内に何らの変化もない。相変わらず二人の他に客もいない。昼間のように明るいこの店内と、夜の真ん中にそびえ立つ灯台、そのふもと。すべての場所で同じ時間が流れていた。


 ライターとあたたかいお茶を買うと、先生は店前の喫煙所で早速それを使って煙草に火をつけた。その横顔に向かって野枝実は言った。

「これからどうしましょうか」

「どうしましょうか。こんな時間だし、そろそろ帰ろうか」

 先生は煙草を指に挟んでさっぱりと言い放った。


 先ほどの甘い味、ココアを飲んでいた先生の甘い味がまだ口の中に残っている。何かがそぎ落とされたような彼の清々しい態度に、言葉が口をついて出た。


「私はまだ帰りたくないです。先生と朝まで一緒にいたいです。さっきの続きがしたいです」

 ちょうど煙草に口をつけていた先生は軽く咳き込む。吐く息とも煙ともつかない白い息のかたまりが吐き出され、すぐに消えた。

 先生は涙ぐんだ目をしばたかせながら湿った声で、そうですか、と呟く。しばし訪れた沈黙の中で、冷気の張りつめたきんという音が聞こえてきそうだった。

「じゃあ、どこかに泊まっていきますか」

「えっと、それは……」

 野枝実は歯切れの悪い言葉を残して壁にもたれかかる。先生は煙を吐き出しながら笑い、さっきの勢いはどうした、と甘やかすような目をして野枝実の頭を撫でた。


「あの、家に行っちゃだめですか」

「家?」

「先生のお家に行きたいです。もしだめだったら私の部屋に……あ、でも運転が大変だろうからやっぱり、」

「俺は来てもらうのは構わないけど。着くころには朝になってるけど大丈夫?」

 野枝実は呆然と先生を見つめながらうなずく。同じ時間が流れていた、傍目には何らの変化もない二人の会話の温度は少しだけ違っていた。

「着くまで寝てていいからね」

 野枝実はすぐに、寝ないですよ、と返した。できるだけ長くと言ったが、本当はずっと、永遠にこの時間をくり返していたい。蜜のように甘い時間、こんなときに寝てしまうなんてもったいない。


 自信をもって放った言葉も虚しく、車が走り出すと野枝実はすぐにうとうとし始めた。

 朝起きてから夜眠るまでがひとつながりになって、今もその延長線上を走っている。しかしこうして先生の車に乗って御前崎からの帰路につく道のりは、その一本の線から分断された何か別の物語のようだった。それを実感した途端にずんとのしかかってくるまぶたの重み、野枝実はついに耐えきれず車中のあたたかさに身を任せた。


 ラジオから聴こえるギターの心地よいリフレイン、車、車、車、目をそらした先に張りめぐらされた防音壁、リフレイン、車、車、リフレイン、壁。明け方近いラジオパーソナリティの静謐な声色で聴いた曲紹介と、その歌詞をぼんやりと覚えている。口蓋に残るココアの味、その奥にある煙草の苦味、潮風の匂い。単調な近景、揺れの少ない快適な車内、そこに行き渡る暖房、眠りのぬかるみ。野枝実はみるみる心地よい眠りの中へ引きずり込まれていった。


 カーブで体が緩やかに傾き、小さなパーキングエリアに入り込んだところで野枝実は目を開ける。目の前の空の遠くが白み始めていて、もうすぐ夜が終わろうとしていた。

 誰もいないパーキングエリアであった。朝霧で周囲が白くぼやけ、寝ている間に世界から取り残された場所にたどり着いてしまったのかと思った。自販機、小さなコンビニ、その隣にある小さな喫煙所、簡素なお手洗い、必要最低限のものが置かれた静かな休憩所でそれぞれの用を済ませ、車に戻るとシートを倒して少し仮眠をとった。着ていたダッフルコートを毛布代わりに掛けると、先ほど喫煙所で先生が吐き出していた煙草の匂いと、ほんの少しの朝露の匂いがした。


 窓越しに空をぼんやりと眺めていると、ガラスがだんだん結露してゆく。ガラスのそばまで霧がやってきたように白く霞み、車内は外の世界から少しずつ切り取られてゆく。

 先生は隣の運転席で、同じようにシートを倒して胸の上で指を組み目を閉じており、野枝実もなんとなくその格好を真似した。もう二度と目覚めないのではないかと思うくらいに静かで重たい疲れを宿した寝顔であった。そのような先生と並んで横たわっていると広めの棺にともに入っているような感覚が起こり、それも悪くないと思った。


 年相応に張りを失った頬や、すでに眠りに落ちかけた重たいまぶた、その上に刻まれた二重の線、まばらに生えたまつ毛の一本一本に至るまで、野枝実はその横顔を目に焼きつけたいと強く思った。明日の今ごろ、間違いなく今日のことを思い出しているであろう自分のために、写真のように記憶したいと強く思った。

 ふいに先生が目を開け、野枝実のほうへ瞳を動かす。それから野枝実のほうへ手を伸ばし、人差し指の関節で野枝実の頬に触れ、すぐに元に戻って目を閉じる。無音の中で触れられた一点が、じんわり熱を帯びる。


 窓ガラスにはりついていた水滴が一筋、涙のように滑り落ちていった。

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