3-9. まなざしの温度

 二人で来た道を戻り車にたどり着くと、フロントガラスとボンネットに細かい雨粒がはりついていた。


「雨が降ったのかな」

 言いながら先生はポケットに手を入れて鍵を探している。確かに海風に混じって雨の匂いがしていた。

 灯台を見上げながら野枝実は、先ほど起こった一瞬のできごとを思い返していた。


 あの灯台のふもとで、灯台が消え、海が消え、曇り空が消えた。二つの温度だけが一瞬で世界を構築するような、完璧な調和だけがあった。

 完全無欠の中で目を閉じながら、いつかの夕焼けのグラデーションが脳裏に浮かんでいた。一瞬の完璧な調和は、すなわち大きなキャンバスにたった一つ置かれたジグソーパズルのピースであった。

 野枝実が再びあたたかい胸に抱かれながら先生を見上げたとき、彼がほんの少し、本当にわずかに動揺したような顔をしていたのが忘れられない。


 一度しただけでああなのだから、と野枝実は思った。たった一度しただけでああなのだから、もしその先があるとしたらどうなってしまうのだろう。


 黒く濡れたアスファルトに目を落とした野枝実の頭上で、おっ、と弾んだ声がした。

「雪の結晶だ」

 目線を上げるとボンネットに顔を近づけて、ほらここ、雨粒が凍ってる、と嬉しそうにしている先生の姿があった。


 雪の結晶、見たい。野枝実はそう思うまま、吸い寄せられるように先生に体を寄せた。

 先生と目が合ったとき、野枝実は、あ、と思った。野枝実を見る先生のまなざしの温度が変わり、ほんの少し甘い目になっていたからだ。ぎらぎらに漲る欲求の目ではなく、どこをどうしようか少し離れたところから観察しているような、甘さと静けさの中間くらいの不思議な色気を宿した目だった。


 そのようなまなざしに生け捕られていると、ふと唇の上にもう一度あたたかい雪が落ちてくる。その感触を何度か確かめているうちに、車体の上の結晶は溶けてなくなった。


 どちらともなく後部座席に乗り込むと、先生は黙ったまま野枝実を押し倒した。

 先生の舌が熱い。濡れている舌が熱い。車内の肘掛けの突起に頭をぶつけそうになった野枝実の後頭部を、先生の大きな手のひらが包んだ。

 今までに感じたことのない滑らかさに、思わず小さく声が漏れた。火種のようなあたたかさが一点に生まれ、全身の毛穴に少しだけ汗をかいた。


 二つの熱が舌先で溶け合った。全身に電流が走ったように痺れて、耐えがたいその痺れに鼻腔の奥からかすれた声がこみ上げた。二つの唇が音を立てて糸を引いた。反響しない車内でその音たちは野枝実に、その上に覆いかぶさる先生の背中に次々と降り注ぎ、そのたびに抉られるような情欲が体内で燃えた。

 先生の手がゆっくりと内腿に伸びてきたのを感じたとき、野枝実はわずかに体を強張らせた。はち切れそうな喜びの隣に恐怖があることを自覚した。

 先生はぴたりと手を止め、それからそっと唇を離した。様子をうかがうように野枝実を見た先生の目は潤んで暗い車中でぼんやりと光っており、その光の奥には野枝実の体の何かに気づいたような、本能的な暗い閃きが宿っているのが見えた。


 耳元で、ごめん、と囁くような声がして野枝実は抱き起こされる。暗闇に少し慣れてきた目で改めて先生を見ると、先ほどの甘さが少し薄れて普段のまなざしに戻りつつあった。しかしその奥にはじわじわと燃えるような男の目があることが、野枝実は夢の中にいるように嬉しい。その気配を先生が自ら抑えようとしているとわかり、彼のどうしようもない心の機微を見られることもしみじみと嬉しい。


 車を降りて前方に移動すると、先生は煙草をくわえた。ポケットに手を入れて何かを探していたかと思うと、程なくして野枝実の頭を指の関節で、こんと叩いた。

「そういえばライターがないんだった」

 そのように言う先生の声は少し色っぽくかすれている。ようやく状況を把握した野枝実は慌てて「弁償します」と再び謝罪した。

「冗談冗談。俺もしょっちゅうなくすから」

 でもマッチ売りの少女はもう禁止。そう付け加えた先生はわざとらしく野枝実をにらみつけるとすぐに笑った。子どものようにくるくる変わる表情、初めて見る表情に追いつけずに野枝実は戸惑う。


 一度くわえた煙草を箱に戻す先生はどことなく名残惜しそうな表情をしていた。

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