3-8. 意思をもった唇

 体が芯から冷えていた。先生と世界で二人きりのようで心地よかったこの場所は、すっかりただの心細い夜になっていた。あたたかい光源が欲しい。灯台は遠すぎる。


「先生、ライター貸してくれませんか」

「いいよ、それもしてほしいこと?」

 ポケットからライターを取り出しながらどこか冗談交じりな先生の口調に野枝実は、違います、と否定しながらなんだか笑ってしまう。また、しまう、だ。

「寒くなってきたからあたたまりたいなと思ったんです」

 指先に力を込めて点火し、火柱をゆっくりと地平線に近づけるとライターが小さな灯台のようになった。炎のまわりに手を添えるとほのかにあたたかく、その様子を見て、マッチ売りの少女みたいだな、と先生が笑った。

「確かに冷えてきたな、そろそろ下りようか」


 旅の終わりが見えてきた。煙草を消して車へと戻ろうとする先生の横顔に、野枝実は、あの、と呼びかける。

「ちょっと待ってください、やっぱり、」


 これでいい、がみるみる瓦解していく。もしこれで最後になったら、また何事もなかったように毎日を送っていくとしたら、ふとしたときに今日のことを思い出してのたうち回るような後悔をすることになったら。


 先生は黙って野枝実の続きを待っている。そのまなざしに負け、取り繕うように笑った後、野枝実は先生に抱きついた。また失敗したときには冗談だと言って笑えるように、曖昧ないたずら心を持ったふりをして。ここまで来てそのような逃げ道を残している自分は卑怯だと思い、どのような顔を向けていいかわからず、わからないあまりに胸の中に顔を埋めた。咄嗟に抱きとめた先生の腕に、案の定明らかな戸惑いの色を感じた。


 先生、好きです。ずっと好きです。ぐるぐると卒倒しそうな混乱の中で、野枝実はそのように口走っていた。


 いつも通りの一日だったのに、いつの間にかめちゃくちゃだ。本当に取り返しのつかないところまで来てしまった。と思ったが、考えてみたらこの灯台にやってきた時点で、二人で夜を切り開いた時点で、先生が迎えに来てくれた時点で、もうとっくに取り返しはついていなかった。


 もうどうにでもなれ。野枝実は震える声で言った。

「ずっとこうしたかったんです。ずっと先生にこうしてほしかったんです」

 先生はやわらかく抱きとめたまま野枝実を離そうとしない。気が狂いそうだった。冷気の染み込んだ先生のダウンジャケットは、その奥にある彼の体温が次第ににじみ出てじんわりとあたたかくなってゆく。

 ライターを握りしめていた手が一瞬緩み、その一瞬でライターが手からすり抜けて落ち、ウッドデッキの上で軽やかに音を立てて一回跳ねた。

 あっ。と思ったときにはすでにライターは真下の茂みの中へ消えていた。

「ごめんなさい」

 腕の中で思わず先生を見上げる。いいよ、そんなこと、と囁くような声が聞こえたかと思うと、野枝実の背中に回した腕に力を込めていっそう深く抱きしめた。


 これでいいですか、と先生の声が聞こえる。眠ってしまいそうなくらいに優しい声だった。涙が出そうなくらいに懐かしい声、野枝実は腕の中で黙ってうなずいた。十年前から幾度となく繰り返して埃をかぶった思い出が、まったく異なる状況で、まったく異なる温度で目の前に現れ、野枝実は戸惑っていた。


 何も言わずにしばらく抱き合った後、先生は腕の中にある野枝実を見た。切実な二つの瞳は暗い炎のようだった。ふいにそうしてみたくなるような閃きを宿した暗い炎であった。

 野枝実も先生を見た。先生、と小さく口にしてから野枝実は、彼の唇から目が離せなくなった。それは何か言いたそうに開きかけたかと思うと、ほんの少し強張るように結ばれる。

 意思を持った唇。今まで散々空想したことが現実になろうとしている恐怖。くらくらするような眩暈を感じ、怖くなって目を閉じた。


 息が止まり、遠くの波音が消えた。凍てつく潮風より少しだけあたたかく、チョコレートのようなほろ苦い味がした。


 恐怖と紙一重の、気の遠くなりそうな幸福だった。真夜中の空と同じ色をした静かな海が、閉じたまぶたの裏に広がっていた。

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