3-7. 二度目の告白
灯台が見守っていた。どこまでが海でどこからが空かわからない黒色の遠くに、小さな光の粒がいくつか見えた。
「いつの間にかこんなところまで来ちゃったね」
しばらく話をした後、煙を吐き出しながら先生が改まって言う。
「明るいときに来たらきっと見晴らしいいだろうな」
「でも私、今のこの感じも好きです。静かだし」
「そうだね、これはこれでいいよね」
しばしの沈黙。先生はまた煙草に火をつけた。
今度は展望台に登ってみたいな、と先生が煙草をくわえたまま独り言のように言う。
今度。その言葉に期待してはいけないとわかりつつも尋ねずにはいられなかった。
「今度はいつ来ますか」
「次は昼間だな」
「そうじゃなくて、今度ここにいつ来ますかって話です」
「そんなに焦らなくていいんじゃないの。また気が向いたときに友達でも誘って来れば」
焦りますよ、と野枝実は口調を強めた。
「私はすごく焦って、切羽詰まってます。先生が今度、今度って言うから期待しちゃうじゃないですか」
早口に言いきってから野枝実はすぐに後悔した。脈絡もなく先生を責めてしまったと思った。
言われた先生はきょとんと野枝実を見ていた。指に挟んだままの煙草のフィルターが、導火線のようにじじじとわずかに燃えている。
「先生が悪いんじゃなくて、私が悪いんです。ずっと忘れられなかったのは私のほうなので、その、」
取り繕おうとすると話がますますおかしな方向へいってしまう。先生の戸惑う顔も見たくない。収集がつかなくなった野枝実は諦めてうつむいた。足元は暗闇に消えかけていた。
先生のこと、やっぱり忘れられませんでした。野枝実は観念したようにつぶやいた。
「時間が経てば気持ちも醒めて忘れるだろうって思ってたんです。この先いろんな出会いがあるだろうからって。でもできませんでした。最後に先生に車で送ってもらったときのことを、ことあるごとに思い出してしまって。あのときはすごく後悔しましたけど、その気持ちの整理もようやくできかけてたんです。これで忘れられると思ってた矢先に酔っ払って先生に電話かけちゃうし、情けないですよね、情けないし重いですよね、それでまさか今日こんな風に会えるなんて思ってなくて、嬉しすぎて混乱してたんです。嫌だけどこれがきっと最後だろうなと思って、焦ってたんです」
すみませんでした。思いつくままに言葉を並べた後、野枝実は柵に突っ伏して顔を隠した。首から上はじわじわと沸騰するようだったが、体は芯から冷えて震えていた。
沈黙の中、突っ伏しながら野枝実は目を閉じて波音に耳を傾けていた。波の向こうから吹いてきた潮風が野枝実の髪を揺らしたとき、その頭を先生の手のひらが包んだ。
「ありがとう、そんな風に思ってくれてたんだ」
野枝実にとって二度目の告白であった。一度目のありがとうと今の先生の声が頭上の夜空で重なり、野枝実はほんの少し報われる思いだったが、本当に言いたいことは何も言えなかった。
再びの沈黙の後、先生は、あのさ、と低い声で切り出した。
「俺は荒木みたいに一つ一つのできごとを深く覚えてないんだ。前に会ったときのことも、正直さっき言われるまで忘れてたくらいだから」
冷えきった体が脱力し、野枝実は顔をゆっくりと上げた。体の中で唯一熱を持った器官。先生が買ってくれた飲み物はとっくに冷めきって、包んだ両手の中で頼りなくなっていた。
「それで、さっき言ってた車の中の話って何? ごめん、それは全然思い出せないわ」
「もう大丈夫です、そのことについてはもう、ほんとにもういいんです、私が悪いんです」
野枝実は先生の言葉を遮った。何も覚えていない先生に、彼に一番忘れてほしかったことをわざわざ打ち明けたことを激しく後悔した。長年蓋をし続けていた心の奥底の澱が先生の言葉によって白日のもとに引きずり出されることに耐えられなかった。
何も言えずにいる野枝実に、先生は慎重に口を開いた。
「でも、嫌じゃなかったら教えてほしい」
真剣な口調に、野枝実は観念して少しずつ話し始めた。高校三年生の冬、偶然先生と会えたときのこと。退職すると聞いて焦ったこと。車で自宅まで送ってもらっていたとき、どうしても先生に触れたいと思ったこと。
野枝実は海に向かって言葉を重ねた。寄り添うように隣にいる先生も同じく海のほうを見て、黙って野枝実の言葉を聞いていた。
「本当はあのとき、」
抱きしめてほしかったんです、の抱き、ほどまで口走って野枝実は黙った。思い浮かぶ言葉の一つ一つが重量を持って喉元でつかえた。隣で野枝実の言葉を待つ先生にそれが届くと思うと何を言っても間違いのように思えた。
「あのとき……先生に、してほしかったことがあったんです」
してほしかったこと、と先生が繰り返す。
「先生に、ぎゅってしてほしかったんです」
「ん?」
「いえ、やっぱりなんでもないです」
散々に言葉を選んだ末の、気の抜けた告白だった。ちょうどそのときに吹いた海風が野枝実のか細い声をさらい、先生には聞こえなかったようだった。
聞こえなくてよかった。めまぐるしさの中で、野枝実は口にしたことで少しだけ溜飲が下がった思いだった。しかし先生は煙草を消して迷わず両手を広げ、
「いいよ、どうぞ」
もう何がなんだかわからない。日常と非日常を、夢と夢じゃない境目を、野枝実はぎりぎりのところで保っていた。惑乱の中で野枝実はそこから目をそらし、
「いいです……やっぱり無理です」
「無理ってなんだよ、傷つくなあ」
先生は笑い、消したばかりの煙草にまた火をつける。
これでいいと思った。これでいいと思う胸のうちは、無音の激流で溺れかけているようだった。
先生が灯台に向かって吐いた煙が一筋、夜の中に吸い込まれていった。
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