3-6. 海にそびえる大木
コンビニを出発してからはついに対向車ともすれ違わなくなった。
景色が少しずつ山の風合いから海の風合いへと変わり、やがて視界が開けて道路脇に海岸と地平線が現れた。海は夜空と一体になっていた。
灯台だ、と先生がつぶやいた。暗闇の中の道標、地上からライトアップされた灯台は、海辺に浮かぶ大木のように誰もいない夜を見守っていた。
「灯台の近くまで行ってみたいです」
「いいよ、降りて散歩してみよう」
海沿いの道路は夜空に向かってまっすぐに伸び、その脇に簡素な駐車スペースがあったのでそこに車を停めた。ダウンジャケットのファスナーを閉め、先生が先に車を降りた。
コートの下にこれ着て、と先生は後部座席から小さく丸まった薄手のダウンジャケットを取り出して野枝実に着せてくれた。野枝実の体型より二回りくらい大きかったが、上までファスナーを閉めると空気を含んでどっしりとあたたかい。その上からコートを着込むと首回りの隙間からほんのりと煙草の匂いがした。
すぐ近くで波音が聞こえている。海岸沿いの道路脇から灯台のほうに向かって階段が伸びているのを見つけ、行けるところまで行こうと上ってみることにした。一段上るごとに道路を照らすオレンジ色の街灯が遠ざかり、暗闇に向かって進んでいくようなあてのない歩みだった。
細い階段は途中から幅が広がり、歩幅が変わると息が切れ始める。服の隙間から入り込む冷気もすぐに熱へと変わった。
「辛くないか?」
歩調を合わせてくれる先生の息も少し乱れてきている。その息づかいと野枝実を見やる疲れた視線がほんの少し色っぽく、大丈夫です、と返して野枝実が大きく息を吸うと、潮の匂いを含んだ冷気が喉の奥をつんとさせた。暗闇に目が慣れてくると、二つの白い息が重なってすぐに消えていくのが見えた。
「上りきったらあったかい飲み物で乾杯しような」
「乾杯しましょう。あ、あともう一息じゃないですか?」
石段を上りきると灯台の根元がそびえ、その手前にある門は大きな南京錠によって固く閉ざされていた。門の前には「一般開放 9時〜16時」と書かれた看板があり、なんとなく開けてみようとするがやはりびくともしない。
門に寄りかかって早速煙草に火をつける先生の横顔が、ライターの炎に照らされて一瞬ぼんやりと浮かび上がった。
「あと八時間待てば行けるよ」
スマホで時間を確認する先生の笑顔が再び浮かび上がる。
二人でしばらく灯台を見上げた。先生は灯台の白い光源を、野枝実はその先にある空を見ていた。厚い雲が通り過ぎて先ほどよりも高く開けているような気がしたが、やはり星は見えなかった。灯台はそのような夜空に向かって垂直に伸びる道のようで、もしその一番上まで二人で登ることができたら、と野枝実は思う。
来た道を振り返ってみると、石段を登りきったところに小さなウッドデッキがあり、そこに一台だけある自販機が青白い光を放ってその周囲だけぼうっと明るかった。
太平洋を見渡すことができるウッドデッキ。その屋根からは何かがぶら下がり、手のひら大の歯車のようなものが海風を受けてくるくる回っている。二人で恐る恐る近づいて見てみると、ペットボトルの上半分を切り開いて絵の具で色付けした風車であった。
正体がわかってからもまだ得体の知れない気持ちがぬぐえず、野枝実は先生のそばから離れられない。
「大丈夫、怖くないよ」
凪いだ風車を指先でつついて回しながら先生がつぶやく。そう言いながらも彼は「でもでかい蜘蛛に見えなくもないね」などと追いうちをかけてくるので、野枝実は抗議の意味も込めて先生のダウンジャケットの袖にしがみついた。
しがみついたダウンジャケットの袖が動き、ポケットに手を入れたままの腕が、ほい、と差し出された。野枝実は罠に向かっていく小動物のようにそこに引き寄せられてしまう。罠の中でも本能的に少しでも多くの餌を頬張るように、彼の上着の袖から腕の中へ深くしがみついてしまう。先生を目の前にしたときはいつも、しまう、になってしまう。
眩しい自販機に目を細めながら飲み物を買い、海を背にして小さく乾杯した。一口飲むと冷気がはりついた喉があたたかく潤されて、はちみつレモンの酸味が喉の奥をつんとさせた。
ココアを一口飲んだ先生はしみじみと口を開いた。
「海なんて久しぶりに来たなあ」
「私も。小さいとき以来かもしれないです」
「子どものころ、海水浴とか行った?」
子どものころの記憶。野枝実は海を眺めながらしばらく考え込んだが、やはりほとんど思い出せないことを自覚するばかりであった。忘れているというより、真っ黒に塗りつぶされていて見えないような感じだった。
ただ、海水浴と聞いて思い浮かんだイメージがある。今よりももっと近くで聞こえていた波音。きらきらした砂。もくもくとおいしそうな入道雲。水着に着替える前にトイレに行ったばかりなのに水の中に入るとなんだか催してくるのがむずがゆく、結局ずっと浜辺で遊んでいた。そして、誰だかわからない大きな背中。その背中は小さな野枝実をおぶって浅瀬を泳ぐ。遊び疲れて眠ってしまった野枝実をおぶって砂浜を歩く。
「行った、かもしれないです。多分お父さんと……」
そっか、いいね、と相槌を打ちながら先生は煙草に火をつけた。
「先生は行ったことありますか?」
「子どもの頃に行った記憶はほとんどないな。連れて行ってもらったこともないんじゃないかな」
あ、でもね、と先生は思い出したように、
「うちの親父が船乗りだったらしいんだ。俺が物心つく前にいなくなっちゃったから本当かどうかわからないんだけど」
先生が初めて両親の話をする。いなくなった、という言葉の選び方に野枝実は直感的に自分と同様の事情を感じ取った。
「うちもそうです。私も父が小さいころにいなくなっちゃったので、全然記憶になくて」
「そうなんだ。でもさっきお父さんのこと話してくれたじゃん」
「なんでだか、今日は急にいろいろ思い出したんです」
なんだそりゃ、と先生は笑う。
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