3-3. ジェットコースターのように[2]

 上り坂の途中で野枝実が窓の外に視線を動かすと、助手席側に大きな緑が広がっていた。実家の近くの自然公園に似ている。あれよりももっと大きくて、高速道路の轟音の隣で緑の内側はしんと静まり返っているようだった。

「あちらは砧公園でございます」窓の外にくぎづけになっていた野枝実に先生が言う。

「あそこ、昔行ったことあるかもしれないです」

「そうなんだ、家族で行ったの?」

「はい、小さい頃なのでうろ覚えですけど、多分家族と」

 さわさわと動く黒い緑を見て、野枝実は断片的な風景を思い出した。芝生の上で寝転ぶ懐かしい横顔。白髪混じりのさらさらした髪。えんじ色のシャツ。

 また行きたいな、と思わず言葉が漏れた。

「明るいときにまた来てみるといいよ。広くて気持ちいいところだよ」

「あの、もしよかったら、」

「ん?」

「もしよかったら、一緒に行きませんか」

 しまった。また焦って口を滑らせてしまった。野枝実が助手席で一回り小さくなっていると、少し間が空いて先生が答えた。

「そうだね、行こう」


 バックミラー越しに目にした国道は三次元の迷路のように入り組んでいた。いくつも分岐した複雑な交差点を、たくさんの車がそれぞれの方向に向かって規則正しく動いている。その上に長い長い歩道橋がかかり、更にその上に高速道路の防音壁が伸びて、何重にも重なった道はオレンジ色の未来都市のようだった。

「仕事は土日が休み?」

「私、まだ働いてないですよ。学生です」

 えっマジか、と先生が驚いて野枝実を見やり、慌てて向き直る。

「そっか、今まだ大学生か、もっと時間が経ったような気がしてた」

「大学三年生です。酔っ払って誰かに電話しちゃうってところが大学生っぽいでしょ」

 野枝実が自嘲的に言ってみると、先生は、それはまあ確かに、と苦笑した。

「そのときは飲み会か何かしてたの?」

「飲み会でした。そうそう、アイリと更紗と一緒にいたんですよ」

「アイリとさらさ……ちょっと待って、思い出すから」

 先生はそう言ったきり沈黙する。助け舟を出そうと先生を見やると、極めて真剣な表情で正面を見据えて沈黙しているので野枝実も口を結んだ。


「わかった。山口愛梨やまぐちあいり若原更紗わかはらさらさ

 正解、と野枝実が言うと先生は嬉しそうに笑った。

「思い出した、美術部軍団だ。懐かしいな」

 美術部軍団、というのはもちろんアイリをはじめとした美術部の愉快な仲間たちのことだが、そもそも美術部は野枝実たちが入学した年にできたと聞いた。というか、ほとんどの部活が一度廃部になっていて、野枝実たちの入学と同時に改めて設立された。

 というのは、野枝実が入学する前年の三年生、つまり野枝実の入学と入れ替わりに卒業していった代の生徒たちが、手がつけられないほどの荒れた学年だったからだ。その話をしてくれたのは確か八嶋先生だった。


 ある日の国語の授業、同音異義語について八嶋先生が解説していたとき、チョークを置いた先生は教壇に両手をついて深いため息をついた。雑談が始まるときの合図だ。昔の思い出話などを八嶋先生はそのような間を持たせてから語り出す。クラスの何人かが笑いを含んだ顔をそろりと顔を上げた。

 みんなの予想通り、八嶋先生は訥々と語り出した。薄曇りの五時間目のことで、給食の満腹感がとろとろと心地よい眠気に変わり始めたところであった。

 いやー、あれは僕の教師人生の中でも最凶の学年だったね。何やら気になる語り出しに、生徒の何人かがわくわくと続きを待っている。先生も手応えを感じたのか黒板を振り返り、わざわざ「最凶」と記してまた向き直った。「相性」「愛称」などと並んで記された達筆な「最凶」の場違いさに、何人かが笑いを堪えたような気配がした。


 その最凶の学年では盗難や器物損壊は日常茶飯事で、罵声が飛び交う教室は授業どころではなく、さながら尾崎豊の楽曲のような世界観だったと八嶋先生は語った。表立った暴力だけでなく陰湿ないじめや嫌がらせも横行して何人も不登校になった。内部が崩壊すると全体の磁場のようなものが狂うのだろうか、無関係な変質者などもたびたび校内に侵入してきて連日大捕り物だった。今思えば野枝実があのとき遭遇した変質者は、その最後の生き残りのような人物だったのかもしれない。


 僕も湊先生と一緒にずいぶん戦ったよ、と人の良さそうな表情を歪ませ、悲痛な顔をした八嶋先生は胸の前で拳を握りしめてみせた。年相応に弱々しいその姿は顔を洗う老猫のようで、たちまち遠くの席の男子から「猫パンチみたい」と茶化されていた。

 八嶋先生の話を当時中学二年生だった野枝実は、ふーん、と頬杖をつきながら聞いていた。そのような修羅場をくぐり抜けてきた湊先生が入学直後どのような様子だったか暇つぶしに記憶をたどってみたが、おぼろげな印象すら残っていなかった。


 ただ、湊先生のことを好きになる前から彼にある一定の信頼を寄せていたことを野枝実は思い出した。子どもは子どもなりに、なめた態度でかかってくる大人を嗅ぎ分けることができるものだ。基本的にデリカシーというものがなく、時に大人という権威でもって威圧してくる一部の大人たちに野枝実は年相応にむかついており、だからこそ自分なりに湊先生に心を開いていたつもりだった。

 誰とも適度な距離感を保ち、誰にも踏み込まず踏み込ませず、団結や絆といったうすら寒い精神論を口にせず、淡々とした現実主義で、生徒の話にじっと耳を傾け、あらゆる場面でじっくりと観察する。道が逸れそうになったときにはそれとなく軌道修正して、本人の手柄となるまで誘導する。そのような先生を見ていると、仕事ができる人というのはきっとこういう人のことをいうのだと思った。今思えば混沌としていた学生生活に対して仕事と割り切って付き合う彼の態度は、混沌の当事者でありながら清々しいものがあった。

 夜の高速道路は、そのように唐突に昔のことを思い出させる色合いがあった。

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