3-3. ジェットコースターのように[1]
大急ぎでできる限りの身支度をし、玄関の前で時間を確認すると電話から二十分ほどが経っていた。外に出ると半乾きの髪が冷たく、つい先ほどシャワーを浴びた体が寒さで震えた。
アパートの外階段から階下を見下ろすと、見覚えのある車が道路脇に止まっているのが見える。その車体にもたれかかって煙草を吸っていた先生は、野枝実の足音に気づくと振り返って軽く手を挙げた。
「すみません、お待たせしました」
「全然、こっちこそ急にごめん。もう夕飯食べた?」
「まだです、さっきバイトから帰ってきて……」
「それはお疲れさん。どっかで何か軽く食べようか」
野枝実は足を踏み出して、よいしょとステップを上って助手席へと乗り込む。普段の目線よりはるかに高いフロントガラスに広がる景色が、別世界のようになって目に飛び込んでくる。
とりあえず何を食べるか考えよう、と出発した二人は多摩川沿いから環状八号線をしばらく走った。ご飯ものが食べたいと言う先生と最初は近くの飲食店を探していたがなかなかちょうどいい店がなく、しばらくするうちにひとまず何かあたたかい飲み物を買って飲むということで意見が一致した。
車内で他愛ない言葉を交わした。今日は先生の職場で仕事始めの食事会があったこと。職場というのは昔勤めていた会社で、教師を辞めてから知り合いの伝手で別の部署に再雇用されたこと。今日は車で来ていたので食事会でお酒は飲まなかったこと。飲み過ぎた同僚を一人送り届けたときに野枝実の実家近くを通りかかったこと。
聞きながら野枝実はふくふくと居心地がよかった。先生とこうして顔を合わせるのは何年かぶりだというのに彼の口ぶりは妙な高揚も気遣いもなく、寝る前に電気を消してお互いに目をつぶってするような、ずっと前からこんなやりとりをくり返しているような安心があった。
それに今の先生は、張りつめていたものが緩んだような程よい脱力があった。聞いてはいけないことがたくさんあるような底知れなさを感じていた学生時代から、初めて先生と対等になれたような気持ちが起こった。
国道に入る複雑な分岐に差し掛かり、そこへ合流すると途端に行き交う車が増えた。広い駐車場があるスターバックスに入り込み、野枝実はそこであたたかい抹茶ラテを、先生はカフェラテをテイクアウトした。駐車場に戻りながら早速一口飲むと、やけどしそうに熱くてほんのりと甘いミルクが喉を流れてゆく。目の前には道路の上を走る道路があった。
「あれって高速道路ですか」
「そうだよ、東名高速」
カップをちびちびと口に運びながら先生が答える。手持ちのあたたかいカップを両手で包みながら、野枝実は連なる車たちが放つ光に目を奪われていた。
まぶしいヘッドライド、赤いテールランプ、途切れることのない車、車、車。ひっきりなしに響き渡る走行音、排気ガスの落ち着かない匂い、車たちがひしめく車道とは正反対に歩道のほうはしんと静まり返って、二人で機械の街に放り出されたようであった。
「高速、乗ってみたい?」
「はい、乗ってみたいです」
「よし、じゃあ行こうか」
先生は思いついたように言うと、手にしていたカップをぐいっと傾けて大きな一口を飲み込んだ。
「えっ、今からですか?」
「うん、あなたさえよければ」
「行きたい、行きたいです」
野枝実は前のめりに答える。突然の冒険。しかも先生が自分のことをあなたと言った。次々とこみ上げる幸せに溺れそうになりながら、野枝実は軽く飛び跳ねて、高速に乗るなんて初めてかも、と声も弾ませた。
先生は、そんなに喜ぶと思わなかった、と笑い、
「でも何かの行事でバス使ったときに高速乗らなかったっけ。いつだったかな、二年生の林間学校のときだったかな」
「あ、確かに乗ったかも」
「八ヶ岳だから高速に乗って行ったと思うよ」
って言っても俺も全然覚えてないや、と先生は付け加えて、
「じゃあ、夕飯はサービスエリアで食べようか」
突然の冒険。
「東京インター」と大きく表示された緑色の看板の向こうには、緩やかな上り坂がまっすぐに続いていた。
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