3-2. 湊先生
帰宅してシャワーを浴び、居室に戻るとテーブルに置いたスマホが震えていた。
ただでさえ電話なんて滅多にかかってこないというのに、町田さんだろうか、いやたぶん母だ、そういえばまだメールの返信をしてなかったから。
一瞬でそのような思いを巡らせながらバスタオル一枚で小走りになり、取り上げて目にした表示に、それまでの他愛ない動きがぴたりと停止した。
停止している間に着信はやみ、震えていたスマホは静かになってやがて暗転した。それまで表示されていた「湊正臣」の無機質な文字も、何事もなかったように消えてなくなった。
半裸のまましばらく停止していた野枝実は深く息を吸い込んで、着信履歴から彼の名前を探した。
何かを決意したときの心中は穏やかであった。呼出音を聞きながら先生の声を思い出そうとしたが、野枝実の中の大きな影はもはや声すら持っていないことに気づいて心許なくなる。
一度だけ湊先生に電話をかけてしまった。先日の忘年会で失敗してしまった。
アイリと更紗の三人で集まった忘年会は大いに盛り上がった。待ち合わせ場所のハチ公前にピンクのドレッドヘアーのアイリが現れたことを皮切りに、明け方まで乱痴気騒ぎが続いた。
二軒目に入った居酒屋で更紗がふと湊先生の名前を口にし、その名前が酔った頭脳にはりついていつまでも離れなかった。始発電車に揺られ、これから出かけていく人たちと逆方向へ歩きながら、野枝実は気がついたら大昔に先生と交換した電話番号に発信していたのだった。
しばらくして留守電に切り替わったところで我に返ったとき、血の気が引くように酔いが醒めていったときの薄ら寒い感じが湯上がりの肌と重なり、野枝実は半裸の体を小さく震わせた。
程なくして呼出音が途切れてから少し間があって、はい、と低い声が耳に届いた。
「もしもし。あ、荒木です」
「ああ、急に電話してごめん」
初めて電話越しに聞く先生の声。少しくぐもって聞こえるその声は、懐かしいというより見知らぬ人のようだった。
「いえ、えっと……あけましておめでとうございます」
「あっ、そうか、おめでとうございます」
「本年もよろしく……?」
何年も宜しくしていないというのに白々しい時候の挨拶が口をついて出た。違和感を覚えて野枝実が言い淀むと、電話口で先生がふふっと笑った。
「こちらこそ本年もよろしくお願いします」
「あの、この前は電話……すみませんでした」
「そうそう、電話くれたよね。どうしたの」
「すみません、夜中に間違えてかけちゃったんです」
そうか、よかった、と先生の声がにわかにやわらかくなる。
「間違えたんだろうと思ったんだけど、何かあったのかってちょっと気になってたんだ。時間も時間だったし、こっちも特に折り返ししてなかったから」
「ご心配かけてすみません。酔っ払って、間違えてかけてしまって……後から気づいたんです」
「酔ってたの? 意外だな。でも、電話くれたおかげで久しぶりに思い出したよ。実はさっき車で荒木の家の近くを通ったから、どうしてるかなと思って電話してみたんだ」
「あの、私引っ越したんです。今一人暮らししてて、そこにはもう住んでないんです」
「どこに引っ越したの」
「神奈川です、元住吉です」
「そうか、でも元住吉だったら都内に近いな。もっと遠くに引っ越しちゃったのかと思ったよ」
先生の声がだんだん雪解けのようにあたたかくなってゆく。電話口の向こうで遠くに車の走行音が聞こえ、しばしの沈黙の後、あの、と野枝実は切り出した。
「先生、今まだ外にいますか」
「外だよ」
「明日、何か予定ありますか……」
「明日は休みだけど」
「私もです、」あてもなく尋ねたものの、うまく着地できずに言い淀んだ。再びの沈黙。
「先生、今から会えませんか」
「うん、いいよ」
「え、」あっさりと返ってきたその声に野枝実のほうが慌てる。電話口の向こうでまた先生が小さく笑うのが聞こえ、
「明日は休みなんでしょ」
「休みですけど、あの、え、ほんとにいいんですか」
「ほんとにいいよ。せっかくだから久しぶりに会おうよ」
久しぶりに会おうよ。濡れた髪から、ぽた、と水滴が垂れて太腿に落ちた。
寒いからあったかくしておいで。電話を切る間際にそのように言われた気がする。
ゆっくりと吐いたため息は震えていた。むき出しになった腕にはいつの間にか鳥肌が立っていた。
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