第三章

3-1. 日常と非日常のはざま

「ピンクのセメント準備しといてね」

「はい」

 野枝実は準備しておいたピンク色のキャップのセメントを手に取る。院長の手元をちらりと見てこれから接着する銀歯の大きさを確認した。左下の奥歯。セメントは少し多めに練っておいたほうがよさそうだ。歯科助手のアルバイトを続けてもうすぐ三年になる。今からしようとしている銀歯の接着用のセメントを練る作業も、ようやく慣れてきて慌てずにできるようになった。


 プラスチックのヘラを使い、小さな正方形の台紙の上で二種類のペーストを練り合わせていくと、ある瞬間から手応えが変わる。二種類が混ざり合って手首がもったりと重くなるその瞬間、野枝実はそれを感じ取るのが楽しいがのんびりと楽しんでいる暇はない、出来上がったセメントは空気に触れた瞬間から少しずつ固まり始めているので、程よい固さのうちに台紙の上でひとまとめにすると院長に目で合図した。

 院長の青色のゴム手袋から野枝実のピンク色のゴム手袋へ、銀歯が手渡される。先ほどまとめたセメントをその裏側の窪みに詰める。ぴったりと収まった。

 セメントの表面を平らに整えて銀歯を手の平に乗せ、再び差し出す。受け取った院長は細長いスケーラーで微調整をし、口を開けて目を閉じている患者さんへ。接着した奥歯の上に円筒の脱脂綿を乗せ、先端を手で押さえる。


「はい、ぎゅっと噛んでてくださいね」

 仕事帰りと思しき疲れた顔をした男性は、ぎゅっ、と力強く脱脂綿を噛む。院長がそっと手を離し、手元のタイマーを三十秒にセットした。

 タイマーが鳴り、ピンセットで唾液を吸った脱脂綿を取ると再びスケーラーを使って装着した周りのはみ出たセメントを取り除く。鋭い金属でカリカリとセメントをこそげる音が空気を震わせる。流行りのJポップの琴アレンジの有線放送が、受付から小さく聞こえる。


「はい、噛んでみて。何か変な感じしないですか」

 かちかち。患者の男性は院長に言われた通り、ロボットのように直線的に顎を上下させて感触を確かめながら、大丈夫です、と小さな声で答えた。

「じゃあ、軽くお口ゆすいで終わりです」

 院長は素早く手袋を外して、すぐに診察室の衝立の向こうに消えた。

「この後三十分はお食事控えてくださいね」

 紙エプロンをほどきながら野枝実が言うとスーツ姿の患者は、はい、と軽く頭を下げる。彼が会計を終えて出て行ったのを見計らって衝立から院長が声を上げた。

「この後は予約入ってる?」

「今日は以上でーす」受付の町田さんの声がする。

「よし、じゃあ今日は終わりにしよう」

 やったー、と受付から声が上がった。屈託のない明るい声に、院長がマスクの奥で小さく笑う。

 ふと時計を見ると八時少し前だった。受付の締めは町田さんに任せて、野枝実はマスクを外して診察室の清掃作業に入った。


「町田さん、今日は患者さん何人?」

「午前と午後合わせて三十人でーす」

「思ったより少ないな。新年初日だからもっと来るかと思ったんだけどな」

「初日だからですよ。新年は忙しいから歯医者さんは後回しなんですよー」

 受付から戻ってきた院長が首をかしげながらマスクの奥でため息をつく。寡黙な院長が珍しく雑談していて、よほど期待外れの集客だったのだろう。足先を引きずるような疲れたサンダルの足音が遠ざかり、衝立の向こうに消えていった。


 一月四日金曜日、三が日が過ぎた今日は仕事始めだった。正月休みはこれといって予定もなく、年の瀬に美術部の仲間たちと小さな忘年会をしたくらいだった。そういえば母とも、あの夏の日以来会っていない。来月二十一歳の誕生日を迎える野枝実に、何が欲しいかと母から今日もメールが来ていたが、その返信もまだしていない。


 締め作業を終え、着替えて外に出ようとしたら照明を落とした待合室のソファに町田さんが腰かけていた。

「荒木さん、駅まで一緒に帰りませんか」

 暗い待合室に朗らかな声が浮かび、野枝実は咄嗟に声が出ない代わりに大きくうなずいた。

 外に出た途端に射抜かれるような冷気に、さむっ、と二人同時に体を震わせた。歩道の脇には雪がまだ残っている。昨日の明け方から降り始めた雨はやが大粒の雪になり、ほぼ丸一日降り続いた。屋根や車のボンネットには一葉に雪が積もり、東京では珍しい雪景色が見られた。


「いきなりなんですけど、もしよかったら明日一緒にごはん行きません?」

 駅への道中で町田さんが言う。彼女は診療中とは違うほんのりピンク色のマスクをつけ大きなマフラーを巻いていた。マスクの奥に隠れた口元はどんな表情をしているのかわからない。

「えっ、はい、是非」

「よかったー。明日約束してた子にドタキャンされちゃって、お店予約してたからどうしようと思って。ありがとうございます」

 真ん丸の目が柔らかくゆるむ。わざわざ待っていたのはそういうことかと思った。

「あたし、明日もシフトなんで終わってからでもいいですか? 今くらいの時間になると思いますけど」

「もちろん。お腹空かせて行きます」

「あ、あと荒木さんってお酒大丈夫ですか?」

「お酒大丈夫です、好きです」

「えっ、自分で聞いておいてあれですけど、なんか意外ですね。なんか寝る前にハーブディー飲んでそうとか思ってた」

「全然、ハーブティーどころか晩酌してますもん」

「えー、ますます意外! 明日のお店、日本酒がおいしいところらしいんで楽しみにしててくださいね」

 日本酒。それを聞いて燗酒が胃にたどり着いたときのように、冷えきった体がじんわりとあたたかくなった。

「今日みたいに寒い日は熱燗をゆーっくり飲みたいですよね」

「あはは、それほんとにお酒好きな人が言うセリフですよ! やばい、めっちゃ楽しみになってきた」

 町田さんは手袋をした手をぽすぽすと叩いて笑った。


 そういえば前に付き合っていた人はお酒が好きだった。ずいぶん前に別れてしまったが、付き合っていたころの彼は野枝実の部屋に色々なお酒を持ち込んではよく飲んでいたものだった。仕入れ先は決まって駅前のカルディで、ジャケ買いなどと言って外国の瓶ビールや綺麗なラベルのワインを買ってきたものだった。彼はお酒が強いけれど飲み方が綺麗で、野枝実はそこが好きだった。

 その人と別れた後は聞きかじりのお酒の知識だけが野枝実に残った。


「でも、実はあたしも結構飲み会とか好きなんですよねー。次の日はオフだからがっつり飲んでもいいですか?」

「もちろんですよ、私もそのつもりです。稽古はお休みなんですか?」

「うん、久しぶりに一日オフなんです。で、久しぶりに何も予定ないから撮りためたドラマ一気見しようかな」

 小さな劇団に入っているという町田さんはいわゆるフリーターである。野枝実より確か三つほど年上だがバイトでは野枝実のほうが先輩という微妙な関係性で、お互いに少し気を遣って敬語を使い合っている。

 ほぼ毎日シフトに入っている町田さんとは、顔を合わせているうちに自然と親しくなった。きびきびと動いてよく気が利く彼女と、機敏さには欠けるものの仕事が丁寧な野枝実の働きぶりは正反対だが、仕事中は不思議と波長が合ってやりやすい。

 お金は自分一人で生きていけるぶんだけあればいいんで、就職とかとりあえずいいかなと思って。就職すると劇団のほうにあんまり出られなくなっちゃうから、とあっけらかんと言い放つ町田さんに、野枝実は素朴に憧れていた。化粧気のない、生成りのコットンのような彼女の雰囲気も好きだった。


 駅のホームでそれぞれの電車に乗り込んで別れ、顔を上げて車窓から外を眺めると、ちょうど多摩川を通過するところだった。丸子橋が街灯のオレンジ色に染まってあたたかくライトアップされている。その下に黒く広がる水面がそのオレンジ色を映し出し、遠くの高層ビルのネオンとともに静かに揺れていた。

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