2-14. 黒塗りになった思い出

 衣装ケースの底に埋もれた中学の卒業アルバムは、カバーの中央にガムテープが一巻きされて中身を出せなくなっていた。

 まっすぐ几帳面に一巻きされたガムテープ。縁には埃がつき、色あせて脆くなったそれは少し力を込めれば簡単に破けてしまいそうだったが、その脆さがかえって何かを封じ込めているお札のような不気味さを帯び、無責任な懐かしさからふいに見てしまわないように過去の自分から念を押されているようだった。はるか昔のできごとに思いを馳せると、当時の自分がどんな思いで封じ込めたのかなんとなく思いが重なり、今更その封印を解いて中身を見る気にはなれない。


 ともちゃんやアイリからもらった手紙も出てきた。当時は手紙を可愛く折って交換するのが流行っていて、アイリは特にたくさん折り方を知っていた。手裏剣の形、ハートの形、星の形、いくつか開いて中身を見てみると、他愛ない秘密のやりとりが詰まっていた。色とりどりのビー玉やおはじきのような、素朴な色をした愛おしい思い出たちであった。


 高校の教科書の間に薄いアルバムが挟まっていた。スピード写真店で無料でついてくる簡素なアルバムであった。ペンギンの親子のイラストが描かれたその表紙は日に焼けて丸まっている。中身はすべて野枝実の写真だったが、どれもなんだか微妙な写真ばかりだった。背中を丸めた後ろ姿だったり気を抜いたときの変な表情だったり、誰かの後頭部が思いきり映り込んでいたり、手ぶれしてぼやぼやになっていたり。本人が見るから辛うじて自分だとわかるものの、傍から見たら論外の写真として、ぽいと脇に除けられてしまいそうなものばかりだ。


「ねえねえ、これってお母さんが撮ってくれた写真?」

 自分のベッド下に掃除機をかけていた母を呼び止めてアルバムを見せると、

「えー、お母さんが撮ったらこんな変にならないよ」

 そう言ってから母は思い出したようにふふっと笑って、

「これ、お父さんが撮った写真だ」

 お父さんが撮った写真。母は、まだ残ってたんだ、全部持ってっちゃったと思ってた、と懐かしそうにアルバムに顔を近づける。

「お父さんがいなくなるときにね、野枝実が一緒に写ってる写真を全部かき集めて持って行っちゃったの」

「それでこんな変な写真ばっかり残っちゃったんだ」

「そうそう。これはいわゆる失敗作を集めたアルバムだね」

 いなくなる、と母は当たり前のように言う。そこに理由を尋ねる余地はない。

 母に父の話をできないというのは、母娘でする恋愛話がぎこちないだとか、初潮が来たことをなかなか言い出せないだとか、きっとそういう類のタブーだ。恐らくこれからも、いつまで経っても慣れることのできないいびつな話題だ。


 野枝実は改めてアルバムを眺めた。抽象的な思い出たちを眺めながら野枝実は、あれ、と思った。どの写真を見ても気持ちは凪いだままで、思い入れのない他人の写真を見ているようだったからだ。小学校の運動会なんてあったっけ。縁日になんて行ったっけ。


 幼いころの記憶がごっそりと抜け落ちていることに気づいた。そもそも小学校に通ってたっけ。どんな友達がいたんだっけ、どんな毎日を過ごしていたんだっけ。たぐり寄せるように記憶をたどったが、あるところで糸はぷつりと切れていた。身に覚えのない写真をいくら眺めていても何一つ懐かしい気持ちが湧き起こらない。


 どうして何一つ思い出せないのだろう。どうしてこのころの記憶にたどり着けないのだろう。

 記憶の糸が切れないように用心深くたぐり寄せるうち、野枝実は一つの記憶に行き当たった。野枝実が思い出すことのできる一番古い記憶、それは中学校の入学式の日であった。


 おめでたい日だというのにどんよりと雲がかぶさった肌寒い日だった。ともちゃんと同じクラスでありますように、と一抹の期待を胸に、校庭に張り出されたクラス分けの掲示板を凝視していた。太陽は分厚い雲に隠れ、同じく校庭でそわそわする同級生たちに影はなかった。結局ともちゃんとは同じクラスになれず、見知らぬ名前ばかりが並んでいるのが心細かった。

 その後思い出されるのは点描画の点のような断片的な毎日。一つ一つの点が描き出す全体を思い起こそうとしたら、自分が自分でなくなっていくような気持ちが起こった。


 野枝実は後ろにいる母に振り返って呼びかけた。

「ねえ、ちょっと見て見て。ほんと変な写真ばっかり」

「あんまり悪く言わないであげて。お父さん、自信満々でずっと野枝実の写真係だったんだから」

 ずるい。急にお父さんの味方になった。心なしか以前より丸みを帯びたような母の背中を見て、野枝実はぐっと唇を噛んだ。その背中に何かを言いたかったが言葉が見つからなかった。

 本当は母の背中にしがみつきたい思いだったが、そこに飛び込んでいく勇気はない。母の背中の優しいやわらかさに今体を委ねてしまったら、後になって違う形で裏切られるような気がした。


 行き場をなくした体を持て余しながら、野枝実はもう一度アルバムに目を落とした。

 隠し撮りみたいな写真ばかりだった。そして写真に写る自分の後ろ姿は猫背でいつも自信なさげだ。父はこんな後ろ姿をずっと見ていた。


 野枝実は少しだけ背筋を正してみる。母ではない誰かが見ているかもしれないと思った。この写真が撮られた頃と比べて、今はどんな後ろ姿をしているのだろう。背が伸びても髪が伸びても体つきが変わっても着る服が変わっても、自分の後ろ姿は見ることができない。今背筋を伸ばしてみたところで、それを父に見てもらうことはできない。

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