2-12. 母娘とピザ

 見知ったかつての最寄り駅で電車を降りると、冷房で冷えた体に真昼の熱気がまとわりつく。ホームに照りつける容赦ない日差しに野枝実は目を細めた。


 改札を出た野枝実を見つけた母は大きく手を振った。晴れた日にはいつも持ち歩いている日傘を母は今日も持っており、首から上に濃い影を作って表情はやはりわからない。

「駅前の雰囲気、変わったでしょ。歩道の拡張工事だって。確かに今まで狭かったよね、自転車も通るし危なかったもんね」

 そう言いながら野枝実を振り返る母のすぐ横を自転車が追い抜いていく。

 道路にはみ出して作られた歩行者用の仮通路はもとの歩道よりも更に狭い。ぎりぎりですれ違う歩行者や自転車の往来に加えてそのすぐ横を車が通り、そのすぐそばでは交通整理の笛が絶えず鳴り響いている。かつての歩道からはコンクリートの溶けるような工事現場の匂いがしていて、笛の音に重機の音に熱気と汗、それらがくらくらするような暑さの中で混ざりあって混沌としていた。


 仮通路を抜けた先にある大きな交差点に差し掛かると、ようやく母と横並びになることができた。

「一人暮らしはどう? 大学とかアルバイトとか、もう慣れた?」

「うん、バイトは毎日入ってるからだいぶ慣れたよ」

「アルバイト先、いい歯医者さんなんだってね」

「そうそう、腕がいいって評判みたい。優しくていい先生だよ」

「へえ、お母さんもこれからはそこで診てもらおうかな」


 他愛のない話をしながら緑道を歩いていると、何度か散歩中の犬とすれ違った。どの犬も暑そうに舌を出し、熱を溜め込んだコンクリートの上をつま先立ちでトコトコと歩いていた。丸い顔をした柴犬と目が合い、その犬は軽やかに歩きながらしばらく野枝実を見ていた。こちらを見る二つの瞳は吸い込まれそうに真っ黒で、舌を出した顔は笑っているように見えた。


 木漏れ日というより虫食いのような濃く立体的な影が地面にはりついている。風でさわさわと揺れる虫食い影はそれ全体がそういう生き物のようで、その影が作る日陰を風が通り抜けるときだけはわずかに涼しく、体を束の間ほっとさせることができた。


 引越した先で野枝実はアルバイトを始めた。ネットの求人広告で見つけた小さな歯科クリニック。恰幅のいい院長先生と面接をしてすぐに採用が決まった。新しい部屋、新しいバイト先、すっかり新生活を始めた気分になっていた。


 久しぶりに母に連絡を取った。引越してから四か月ほど経った、灼熱が猛威をふるうお盆休みが明けてすぐの日のことだった。

「じゃあ荷物整理がてら、こっちで一緒にごはんでもどう?」

 電話口の向こうで弾んだ声を上げる母は、いつか野枝実が聞いたねっとりとした大きな女とは別人のような声色だった。


 隣を歩く母が鞄からスマホを取り出し、日傘を持ちながら不慣れな手つきで操作し始めた。

「お母さんね、野枝実と一緒に食べたいものがあるの」

「なになに、このへんのお店?」

 母が嬉しそうに眺めているスマホの画面をのぞき込むと、そこに大写しになっていたのは宅配ピザのメニューであった。具材が山盛りになったホールピザからとろりと溢れるチーズ、その写真になんだか脱力し、「家帰ってからゆっくり見ればいいじゃん」と野枝実は笑ってしまう。

「持ち帰りだと半額なんだって。今から買って帰ろうと思ってるの。野枝実はどれがいい?」

「えー、よく見えなくてわかんないよ」

 涼しい店内でゆっくりメニューを見ながら決めればいいものを、二人は緑道の端に寄って立ち止まり、炎天下の中スマホをのぞき込みながらピザを選んだ。普段はデリバリーのピザなど滅多に食べない母が珍しくはしゃいでいて野枝実もつられて嬉しくなる、と同時に、母のはしゃぎようにどこか白々しい気持ちを抱いていることも気づく。


 二人のそばをまた散歩の犬が横切っていき、街路樹に密生する蝉が頭上でけたたましく鳴き続けていた。

 ひりひりと痛いくらいの日差しを浴びながら、こめかみから汗を流す母は涼しい顔をしている。薄手のカーディガンからのびる骨太の手首はたくましい。母は暑さに強くて寒さに弱く、野枝実は寒さに強くて暑さに弱い。


 涼しい店内で先ほど話し合って決めたピザを注文すると、店員にサイドメニューとドリンクを勧められ、母はわかりやすく困惑した。

「どうしよう、ピザのことしか考えてなかったよ」

 隣で見ていた野枝実に母が助けを求める。

「じゃあチキンセットはどう?」

「そんなに食べられるかな」

「じゃあフライドポテトとか」

「うーん、それもちょっと重いよねえ」

「大丈夫、私が多めに食べるから」

「えー、でも……」

 優柔不断な二人の後ろにはいつの間にか一組の親子連れが並んでいた。

「お母さん、後ろにお客さん待ってるから早くしないと」野枝実が小声で母に言うと、

「えっ、やだ、ごめんなさい、すぐ決めますね」

 後ろを振り向いて動揺する母に、並んでいた子連れの若いお母さんは恐縮した笑顔で、

「私たち、まだ迷ってるので気になさらないでください」

 母が再び困ったように謝罪し、野枝実も一緒に頭を下げる。なんとなく和やかな空気の店内で、母はすっかり感じのいいおばさんになっていた。

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