2-11. 2007年11月16日[3]

 二人でのろのろと教室に上がっていくと、誰もいないと思った教室にあかりがついていて騒がしい。なんだろ、と二人で顔を見合わせてこっそりとのぞくと、背をこごめて机を囲む女子数名の後ろ姿が見えた。何やら作業をしているようだった。

「なにしてるのー?」アイリが何の迷いもなくその輪の中に入っていき、早速そこで打ち解けている。教室に入ることすら躊躇していた野枝実は、アイリのこういうところが心の底からすごいと思う。


 アイリにくっついて野枝実も机をのぞき込んでみると、そこに広がっていたのは大きな画用紙とたくさんの写真の切り抜きであった。

 真ん中には大きく「三年間の思い出 2005〜2008」というカラフルな文字。それを中心に三年間のさまざまな行事の写真が人物を中心に切り貼りされている。卒業アルバムのコラージュページの制作だった。

「あっ、これ横浜遠足のときのやつだ、なつかしー!」

「あっ、これ野枝実ちゃんじゃん。この頃は髪短かったんだねー」

「あっ、この写真の映りやばい。使わないでー!」

 一人ではしゃぐアイリの隣で、野枝実は湊先生が写っている写真がないか密かに探していた。コラージュの主役は卒業生なので、大人が写っている写真自体がそもそも少なかった。運動会の応援席、林間学校のキャンプファイヤー、修学旅行の集合写真。頭に思い描いたたった一つのピースを探すように先生のシルエットを探していたが、どの写真にも先生は写っていなかった。机に広げられた写真を一つも手に取らずに素早く見分すると、野枝実のコラージュへの興味はすっかり失われてしまった。

 アイリは当初の目的も忘れてすっかり写真に夢中になっている。卒アル委員の好きな人の写真が発掘され、にわかに盛り上がる輪の中で所在なくなってしまった野枝実は、アイリを置いていくわけにもいかず、さりげなく輪を離れて窓の外を眺めた。


 夕刻の空が一面に広がっていた。美術室を出たときに緑の隙間からのぞいていた空の全景であった。野枝実の真上の空はすでに紺色がかって夜が訪れようとしている。その奥のほうはまだうっすらと夕焼けがあり、遠くに赤いネオンが小さく点滅しているのが見えた。

 空の真下に広がる校庭の真ん中に人がいるのが見えて、野枝実はすぐに誰だかわかった。まっさらな灰色のキャンバスに一つだけ置かれたジグソーパズルのピース。誰もいない校庭の真ん中で一人、煙草を吸っている湊先生の横顔があった。

 わっ、と野枝実は息を呑み、途端にそこから目が離せなくなる。音を立てないようにそっと窓を開けて顔を出した。


 野枝実の頬を髪を、冬の気配を含んだ澄んだ冷たい風が通り過ぎてゆく。先生は野枝実に気づいていない。窓から少し身を乗り出すと肌寒い風が制服を通り抜けていき身震いしそうだったが、体の中はじんわりとあたたかい。


「湊せんせー! 何やってるんですかー」

 下級生の校舎から声がして野枝実は慌てて引っ込んだ。L字の校舎の長辺、野枝実が視線を横へ滑らせると野球部と思われる坊主頭の男子が二人、同じく窓から顔を出して先生に呼び掛けている後ろ姿が見えた。

 振り返った先生は、煙草をくわえながら彼らに向けてラッキーストライクの箱を黙って掲げて見せた。煙草タイムだ、と坊主頭のどちらかが言い、すぐに窓から引っ込む。

 先生は背を向けて空を見ていた。野枝実も目線を空に移した。


 ――月は地球の衛星で、地球を中心に公転しています。公転にかかる時間は約二七.三日です。目には見えませんが月にも地軸が存在し、地軸を中心に自転しています。その自転にかかる時間は公転周期と同じ約二七.三日です。

 例えば月が九十度自転したとすると、同時に九十度公転していることになります。このことから、月はいつも同じ面を地球に向けています。つまり、地球から見ると月は常に同じ面しか見えません。


 理科の教科書の「天体」の章を野枝実は丸暗記していた。月は常に同じ面しか見えない、という部分を読むたび、身震いするようなわくわくと途方もない恐怖が同時に起こって不思議な気分になるのだった。夜になるといつも空に浮かぶ月に、見えない部分があるなんて考えたこともなかった。

 先生の頭上の空には薄墨をこぼしたような色の細い雲が伸びていた。夕焼けに向かって吸い込まれるような形に伸びたその雲のそばに、雲よりも細い月が弱く光っていた。空の奥は紺色の色合いが濃くなり、赤いネオンも先ほどより少し増えているように見える。点滅する赤い小さな粒は、ゆっくりと広がる夜の中に滲んでいるようだった。


 世界で二人きりのように思えた。野枝実の背後ではアイリと卒アル委員がまだわいわいしていて、美術室にも、下級生の校舎にも当然たくさんの生徒や先生がいて、そんなことはもちろんわかっている。ただ、静かに夜になっていく空のグラデーションのただ中、世界のその一点において野枝実は先生と二人きりだった。開け放した窓から再び顔を出し、野枝実は先生と空を眺めた。


 煙草を消した先生が校舎に向き直り、ふと視線を上げた。そのとき野枝実と目が合った。


 見つかってしまった。風が吹き、三つ編みをほどいたばかりの野枝実の髪を揺らす。野枝実の心中も同様に風を吹き込まれたように、にわかにざわめいた。

 窓から顔を出したまま固まっている野枝実を見上げ、先生が手を振って微笑んだ。薄い口角がやわらかに上がり、目尻のしわがうっすらと浮かぶ。その姿が頭から離れない。

 野枝実がぎこちなく会釈をしたとき、また弱く風が吹いた。地面を撫で上げるような風に思わず体を引っ込めて乱れた前髪を整え、再び顔を出したときにはもう先生はいなくなっていた。


 横顔、風、夜が始まる空。野枝実はそれを忘れることができない。

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