2-11. 2007年11月16日[2]
ひとしきり笑った後、アイリは「野枝実さん、ちょっとカモン」と野枝実を美術室から連れ出した。教室に忘れ物をしたことを思い出したのだという。
暖房のない美術室は肌寒かったが、一歩その外に出たときの空気はいっそう冷たかった。
渡り廊下の大きなガラス窓からは裏庭の緑と夕刻の空が見える。今日はよく晴れていたので鮮やかな夕焼けが生い茂った緑の隙間から顔を出していて、水彩絵の具のような色彩で綺麗だなと野枝実は思う。
「あー、笑った笑った。理央ちゃんの言葉のチョイス最高だねー」
アイリの色白の頬がほんのり上気している。彼女にはこの寒さがむしろ心地よさそうであった。
誰もいない渡り廊下を二人並んで歩きながら、野枝実は改まって言った。
「アイリ、さっきはありがと」
「え、三つ編みのこと?」
「ううん、さっき理央ちゃんに話振ってくれたこと。実はずっと気まずかったの」
野枝実は、ふとしたときに放たれる理央の言葉が少し怖かった。
その年の春、理央が作品を父の日のプレゼントにすると言っていたときのことだった。野枝実がいつものように、いいねー、と相槌を打ったところ、理央は珍しく「野枝実ちゃんは父の日のプレゼントあげないの?」と会話を続けてきたのだ。
お父さん。もうすっかり慣れたこの手の質問に、野枝実はさらりとボールを投げ返す。
「うちはお父さんいないからあげられないんだ」
「死んだの?」
「え、ううん、たぶん生きてるけど、」
「じゃあ離婚したの?」
「そうそう、そんな感じ」
間髪入れずに打ち返される理央の質問に野枝実は少し手元が覚束なくなりながらも、努めて軽いリズムを作った。できる限りシンプルに、明るく返した言葉に対して理央は、ふーんと少し考え込んで、
「かわいそうだね」
その言葉に野枝実のペースは完全に乱されてしまった。後頭部を撃ち抜かれたような衝撃に頭ががんっ、となり、その直後に体中をかきむしりたいような混乱と猛烈な悔しさが全身から湧き上がって頭の中で竜巻のようになった。何も言うことができず呆然としていると理央はしまったという顔をして、
「ごめん、悪い言い方だった、ごめんなさい」
今まで見たことのない必死な表情だった。明らかに悪気がなかったということがわかって野枝実はほんの少し冷静になったものの、頭の中では先ほどの「かわいそうだね」が残響のようにこだましていた。
「ううん、全然大丈夫だよー」辛うじて返した言葉は上ずり、表情も引きつってしまった。
その後の作業はいつものようにお互い無言だったが、二人の間には微妙な緊張感が立ち込めていた。
それ以来、理央が何かを言おうとすると野枝実はなんとなく構えてしまい、その空気が明らかに理央にも伝わっていて、二人でいると少しだけ気まずい。美術室ではいつもアイリたち美術部軍団が大騒ぎしているので、それが何よりありがたかった。
そんなときに先ほどのできごとがあり、野枝実はなんだか溜飲が下がった思いだった。この子はこういう子なんだろうな、と納得できた。と同時に、この件でずっとくよくよしていた自分は子供だなと思った。あのとき、確かに二人の間の空気が和らいだという実感があり、そのきっかけを作ってくれたアイリに感謝していた。
「そんな直球なこと言われちゃったんだ。あの子、全然悪気がないからそれが逆にたち悪いんだよね」
アイリが嫌味なくはっきりと言ってくれるのもよかった。
「そういえば私も理央ちゃんにズバッと言われたことあるよ。アイリちゃんは本当に腐女子だね、って」
意外と的確な理央の発言に、野枝実はなんだか笑ってしまう。笑うとつかえていたものが取れたようにまた気持ちが軽くなり、それが嬉しく、しかしその思いを言葉にすることはできなかったので黙ってアイリの腕に抱きついた。おーもーいー、とアイリが不満そうな声を上げる。
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