2-10. 何もかもうまくいかない[3]

 今にも泣きそうな顔をして立ちすくんでいる母を残したまま、野枝実は寝室に引っ込んだ。リビングの母が動いている気配はなく、まだあのまま立ち尽くしているのかもしれない。リビングのソファで眠るかもしれないから、母が寝たころに部屋を出て浴室へ行こう。昨日湯船に張ったお湯を沸かし直そう。野枝実は電気を消して床に寝転がり、脱いだコートを毛布代わりにかけてそのまましばらく眠ってしまった。

 固い床に転がりながら野枝実は、ぼんやりと一つの夢を見た。夢というより、実際に体験した過去のできごとに立ち会っていた。


 高校三年生の夏休みが近づいてきたころのある日、野枝実は授業中に貧血を起こして倒れた。人生で一番注目を浴びた瞬間だったかもしれない。昔からずっと目立つことが、注目を浴びることが本当に苦手で、それを避けるためにはあらゆる努力を惜しまなかった野枝実にとって痛恨の出来事であった。今思い出しても胸の奥がすっと冷たくなる。

 保健室でひと眠りして早退した後、自宅までの道すがら野枝実は母に電話をかけた。その日は母の仕事が休みで、朝から家にいることを知っていたからだ。友達や、クラスの人や、いろいろな人に心配をかけてしまったけれど、お母さんに心配してもらいたくなったからだ。自宅の最寄り駅まで迎えに来てもらいたくなったからだ。帰りにコンビニで好きなものを一つ買ってもらいたくなったからだ。

 しかし母が電話に出ることはなく、野枝実が気だるい体を持て余しながら帰宅したとき、母は当たり前のようにソファでくつろいでいた。


 どうして電話に出てくれなかったの。そこに立ち会っている野枝実は声を上げようとするがうまく口を動かせない。目の前にいる母は、先ほど見たときと同じように被虐的な顔をして固まっていた。ソファにだらんと寝そべりながら被虐的な顔をしているという、なんだか痛々しい様子だった。

 どうして一番そばにいてほしいときにいてくれないの。どうして寝ている間にいなくなっちゃうの。どうして一番寂しくなりたくないときにそばにいてくれないの。一緒にいて安心していたいだけなのに、どうして安心した途端に離れていっちゃうの。

 弛緩した姿勢でどこか遠くを見つめながら、野枝実の話を聞いているのかどうかもわからない様子の母に向かって、野枝実は声にならない声を上げようとして夢の中で口をぱくぱく動かすばかりであった。


 そんな顔しないでよ。あと、さっきみたいな悲しそうな顔もやめてよ。家に帰ってこなくてもいいから、全部お母さんの好きにしていいから、悲しくないお母さんでいてよ。そんな顔をさせないために今まで頑張ってきたのに。我慢してきたのに。そうすれば。だってそうすれば。

 お父さんが喜んでくれると思ったのに。


 野枝実は再び高校時代の帰り道へと引き戻される。ふらつく足取りを整えながら、少し歩いただけでぶり返してくる眩暈と頭痛をこらえながら、野枝実は昼下がりの山手線に乗り込む。がらんと空いた車内を軽く見渡してから、ロングシートの真ん中に静かに腰を下ろした。

 通り過ぎていくビル群の下でそれぞれの方向へ向かって歩いていく人たちが見える。見知らぬ一人一人を車窓越しに眺めながら夢の中の野枝実は、誰ともない誰かに会いたいと思う。


 今まで何度となく心に空いた空洞にふと入り込んできたその誰かに、つい先ほどを最後にもう二度と会えなくなったことを思い、野枝実は夢の中で途方に暮れる。

 目尻のしわ。その唇。大きな手。衝動的に欲しいと思った自分を野枝実は激しく責めた。

 最後という言葉を聞いたとき、激流の中にいるような焦りを自覚した。思い上がって、焦って、欲張ってしまった。


「先生、私のこと嫌いになりましたか」野枝実は唇を嚙みながら、車内でそのように口走っていた。何もかも嫌になるくらい未練がましい口調だった。

 嫌いも何も、と先生は苦笑しながら言った。その後に先生はなんて言ったんだっけ。野枝実は白々しく忘れたふりをしてみるが、本当は忘れてなどいない。思い出したくもない。


 また取り返しのつかないことをしてしまった。今日一日のあたたかな思いと思い出がすべてちりぢりになってゆく。ちりぢりになった破片がそこここに散らばり、ちくちくと体中に刺さる。体中に無数の切り傷が生まれる。血も出ないような細かな傷。


 固く冷たい床に寝転びながら、野枝実はいつまでもやまないその痛みに打ちひしがれている。

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