2-10. 何もかもうまくいかない[2]

 女となった母の告白を聞いた野枝実はしばらく沈黙した後、じゃあ、と口を開いた。

「じゃあ私、高校卒業したら一人暮らしする」

 振り返ると、母は悲劇的な顔をして野枝実のほうを見ていた。初めてこの世の絶望を直視した子どものような、世にも悲しげな表情だった。


 この顔。この顔を見たくないがために小さな我慢を重ねてきた。言いたかったことを何度もぐっと飲み込んだ。思ったことをなかったことにした。納得したふりをした。蓋をぐっと押さえつけ、蛇口をきつく締め直した。そんな顔をされたら、途端にこちらが悪者になる。彼女の悲劇的な表情には、躊躇なく自分を最弱者へと振りきることができる圧倒的な強さがあった。


 被虐的な母の振る舞いに更に苛立ち、野枝実は早口でまくし立てた。

「お年玉とか今までくれてた食費とか、ほとんど使わずに貯めてたの。調べたら今貯めてる額で引越しの初期費用くらいになりそうなの。全部自分で決めたことだから口出さないで。この家は彼氏でも連れ込んで一緒に住めば」

 言われた母は処女のように顔を赤らめ、野枝実は思わず目をそらした。そんな顔も見たくない。


 恥じらう母の表情から野枝実は一つの光景を思い出した。高校時代の朝、ダイニングテーブルに置かれた夕食費用の剥き出しの千円札とドラッグストアの小さな紙袋。何気なく空けたその中身はコンドームであった。彼女が何をしたかったのかは今でもわからないが、恋愛ドラマのキスシーンが食卓に流れただけでも気まずそうに凍りつく母の顔が浮かび、当時は恥じらいよりも怒りが先立ったことを覚えている。


「ここで私に隠れてこそこそ会うくらいだったら、私が出て行くのがいいんじゃないの」

「そんな言い方ないじゃない。そんな言い方ないじゃない。お母さんは野枝実のことが一番大切だって、どうしてわかってくれないの」

 母は涙ぐんで立ち上がった。その立ち姿を久しぶりに見た野枝実はひるんだ。年齢の割に長身の彼女の体から、女の生命力がわき立つのを感じたからだった。


 野枝実は震える声で言い返した。

「だいたいさあ、最近いっつも浮かれてて気持ち悪いんだよ。久しぶりに帰ってきたと思ったらゴミもちゃんと捨てないで、家の中も散らかして、そういうの見るの嫌なんだよ。もっとちゃんとしてよ」

 同じ目線に母がいる。言いながら野枝実は、母に母らしさを求め続けていること、一人暮らしすると宣言しながら結局は母の母としての存在と役割に依存しているということを自覚して情けなくなるばかりだった。

 母はまた虐げられた子犬のような顔をして黙り込んだ。

 気持ち悪いの一言が効いてしまったのだろうか。しょうがないじゃん、本当に気持ち悪いんだから。野枝実は精いっぱいの虚勢を張る。むらむらと燃える母の女としての力を、野枝実の知られざる母の女としてのしたたかな機能を踏みにじっている、何とも言えない後味の悪さがあった。


 もともと二人きりで暮らしている小さな住まいだから、小さな変化に嫌でも気づいてしまう。顔の見えない誰かが出入りしていることは実際に気味が悪かった。

 玄関を開けた瞬間の空気の異質さ、いつもと少しだけ違う匂い、玄関マットのわずかなずれ、使われた形跡のある来客用の食器、微妙に散らばったトイレのスリッパ、湿気の残った脱衣場、濡れたまま干してあるタオル。そして、わずかな気配の残る寝室、短い硬質な髪の毛、少しだけしわの寄ったシーツ。

 気味が悪いと同時に馬鹿にされているような気分だった。家の中はすっかり浮ついた空気に満ち、糸がほつれて全体のバランスが崩れ、小さなほころびが増えた。脱ぎ散らかした靴、洗面台に落ちた髪の毛、生乾きの臭いを放つ洗濯物、夏場の台所に湧く小虫。他に夢中なことができるとそういったことは目につかなくなるのだろうか、その一つ一つを目にするたびに野枝実は苦しく、だらしなくほどけた紐を結び直すように家事をやり直しながら、やはり母が別の生き物になってしまったように思えるのだった。

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