2-10. 何もかもうまくいかない[1]
玄関扉の鍵穴に鍵を差し込み時計回りに回したとき、手応えがなかった。鍵が空いている。一瞬どきりとした野枝実はすぐに直感した。母が帰ってきている。
そっと扉を開けると、薄暗い玄関先にはやはり母のパンプスが脱ぎ散らかされていた。その向こうの細い廊下には脱ぎ捨てられたコートと無造作に投げ置かれた鞄が落ちている。コートをハンガーに着せて壁にかけたとき、母のコートから普段は使わない香水の甘い匂いがしたことには気づかないふりをした。
リビングの扉を開けるとダイニングテーブルの上のペンダントライトだけが灯っており、そこに肘をついてぼんやりしている母を照らし出している。母はもう最近ずっとこんな感じであった。
おかえり、と野枝実は小さく声をかけた。
「ただいま」母は目だけ動かして答える。声だけははつらつと気丈で、その不整合に野枝実は寒々しい気持ちが起こる。
母から漂うお酒の匂い。野枝実はコートを着たまま台所へ向かい、冷蔵庫のミネラルウォーターをコップに注いで母に手渡した。
「ありがとう」受け取った母の目はとろんと重たそうだった。
ごく、ごく、と喉を鳴らしながら母はゆっくりとコップを傾けてゆく。あっという間に空になったコップを置いた母は、一息つくと濡れた声で口を開いた。
「今日は遅かったんだね」
「うん、予備校にずっといて……コンビニで晩ごはん済ませてきた」
「久しぶりに野枝実と一緒に食べたかったなあ」
甘えたような母の間延びした口調に野枝実は動揺した。
久しぶりに、一緒に、食べたかった? 今までさんざん家のことを、私のことを放ったらかしにしておいて、今日は早く帰ってくるという約束も何度も反故にされて、一緒に食べたかった? 激流のような思いがあふれたが、野枝実はその場で黙り込んだ。
黙り込んでいるうちにその激流はすなわち怒りだとわかった。これ以上不用意に母の言葉を受け止めきれないと感じ、
「ごめんね、遅くなって……お風呂入ってくるね」
「待って、久しぶりにちょっとお話しない?」
嫌な予感がした。聞こえないふりをして寝室に戻ろうとしたが、母は野枝実の返事を待たずに追いうちをかけてくる。
「あのね、野枝実、もう知ってるかもしれないけど、お母さんね、」
うるさい。もう知ってる、わかってる。小さい子どもに言って聞かせるような、諭すような言い方に野枝実は苛ついた。
「ごめん、今日は疲れちゃったからまた、」
「お母さんね、好きな人がいるんだ」
野枝実は母に背を向けたまま停止した。足元を絡めとられるような気だるさと、まぶたがずんと重くなるような疲労が一度に体にのしかかってきた。
「もしかしてもう知ってたかな」
背を向けながら母がいつものいびつな明るさを作っているのがわかった。母に気取られないように息を震わせながら野枝実は、低温で煮えたような、感じたことのない種類の怒りを自覚していた。
「野枝実がね、大学に受かったら話そうと思ってたの。もう大人になるし、野枝実はしっかりしてるし、ね」
母からそんなことを聞くために勉強をがんばったわけじゃない。
母とこのまま顔を合わせたくないと思った。このままだと母のことを母と思えなくなる。子どもの頃みたいに、母が母でなく大きな女に見えるようになる。野枝実と同じように、好きな人ができて、張り裂けそうに思い焦がれて、愛し合うということをして、ちりぢりになって傷ついたり、たまらない気持ちになったり、そういった営みをする大きな女。晴美さん。
すべてを台無しにするのと同時にすべてを突き放したい。その一方で、台無しにした上でそのすべてを引き受けたいとどこかで思っている自分に更に苛立った。時計の針を無理やり逆回転させているような、得体の知れない圧力が静かな怒りの形をとって野枝実の心中を支配していた。
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