2-9. 衝動、拒絶
急な坂道を上った先に広がっている自然公園は森のように広く大きい。街灯よりも背の高い木々が生い茂り、歩道はうっそうとしている。黒々と不気味な葉は道路にも飛び出して、あたりは心なしか一段階暗くなる。二人の乗った車はそのような暗闇を切り開いていた。
「先生、この近くで一旦止められますか」
道路脇に車が止まった。人も車も通らないこの道は、いつもしんと静まり返っている。狭い歩道を挟んですぐそばにある森が、弱い風を受けてさわさわと揺れる音だけが聞こえた。
「どうした?」
シートベルトを外した野枝実を見て具合が悪くなったと思ったのか、先生も同じように外して野枝実の顔をのぞき込む。
「いえ、特になんでもないんですけど……」
野枝実は静かに息を吸い込んで吐いた。
先生のこと、やっぱり忘れられないです。野枝実はうつむきながら、消え入りそうな声で漏らした。車外で森がこすれるさらさらした音に紛れてしまいそうなほど小さな声だった。
野枝実の顔をのぞき込んだまま先生が、ん、と曖昧な反応をする。
そんな顔でのぞきこまないでほしいと思った。何年も前に卒業して年月を重ねて、野枝実は成長して先生は歳をとった。男の人がこんなに近くにいることも初めてではなくなった。
だからこそ、こんな風に一人の人間として身ぐるみをはがすような近づき方をしないでほしい。でもこちらから手を伸ばそうとしたらすぐに身をかわされてしまいそうな、そんな絶妙な場所からのぞきこまないでほしい。
私だけのものになってほしいなんて思わない。その後どんなに軽蔑されてもいい。一度でいいから本物に触れたい。
野枝実の言葉が聞こえなかったのか、聞こえていたけど聞こえないふりをしたのか、最初から何も聞いていなかったのか、突然すべてがもどかしくなった野枝実は、
「だから今も、」運転席へ身を乗り出し、先生をめざして両手を伸ばした。
視線の先には唇がある。そこから目が離せなくなりながら、ずっと前にアイリと繰り広げたつたない妄想を思い出した。あのときのつんとするような寒さが今、野枝実の目の奥にある熱さと完全に重なった。
先生を抱き寄せたいと思ったが、彼の体はびくともしなかった。みっしりとした肩が強張り、目の奥が少しだけ見開かれるのがわかった。
そのまなざしの奥に驚きとほんの少しの拒絶が混じっているのが見えたとき、野枝実は我に返った。惑乱の中でやっぱりな、と思うと途端にバランスを失い、今度は足元からそのまま崩れ落ちてしまいそうだった。
野枝実は今度は、先生の胸の中に体を委ねようとした。あのときのように抱きとめてほしい、その大きな体で包み込んでほしいと思った。
しかし先生は力のこもった手でそれを制止した。ぐにゃぐにゃになった野枝実の両脇の下に素早く差し込まれた先生の手は、片方が一度胸に当たったがすぐにかわされた。先生に受け止められて行く先のなくなった野枝実は元の場所へ戻り、すとんと力なく腰を下ろした。
夜の森の中を風が通り抜けていくような、束の間のできごとだった。
「大丈夫?」先生が苦笑する。
「ごめんなさい、よろけました」
絞り出した言葉は明らかな言い訳だった。下を向いて黙り込む野枝実の隣で先生もしばらく何も言わず、窓際に肘をついて正面を向き、遠くを眺めていた。
「落ち着いたら行こう」
しばらくの沈黙の後、先生は何事もなかったような調子で言った。その顔から野枝実は目をそむけてうつむき唇を噛む。下唇の裏側がじくじくと痛み、更に強く噛みしめているうちにやわらかい皮膚が噛み切られて鉄くさい血の味が少しだけ口の中に広がった。
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