2-8. ふたりきり[2]
先生はレジで野枝実が手に持っていたおにぎりとお茶の代金を払ってくれた。野枝実が慌てて財布から小銭を取り出そうともごもごする一方で、先生は肉まんとあんまんを一つずつ追加している。親しみのこもった口調だった。
外に出るとすぐに、はいどうぞ、と包みの一つが手渡された。
「食べられなかったら二つとも俺が食べるから」
店の前の駐車場と通路を隔てる柵に寄りかかり、二人で早速包みを開けた。二つのあたたかい湯気が立ち上り、二人ほぼ同時に頬張ると先生は野枝実を見て、うまいね、と笑う。野枝実も先生を見て笑った。
ほのかに甘くもっちりとした花巻の奥に、やけどしそうなくらいに熱いひき肉の塊が眠っている。花巻で中の具を包み込むように食べると、やわらかい生地に染み込んだ肉汁が口の中で絶妙にほどけた。
「口からゆげが出てる」
野枝実を見て笑う先生の口元からも、湯気とも吐く息ともつかない白いもわもわが吐き出されては消える。
「うまそうに食べるね。こっちも一口どう?」
「えっ、いいんですか」
どうぞ、と綺麗な半月型になったあんまんが差し出される。こちらの花巻の中には黒いこしあんが地層のようにじっとそこにあって、すごくおいしそう、野枝実は嬉しくなって吸い寄せられるように湯気の中に飛び込んだ。
先生の食べかけ。野枝実は口を開けたままはっとしたがもう遅い。先生が口をつけた花巻にはもうすでに自分の唇が到達していた。
野枝実は餌をついばむ鳥のように半月の端っこをかじる。ほの甘い小麦粉の味だけが口の中でもさもさした。
「……ごちそうさまでした」
「なに、全然食べてないじゃん」
先生は笑ってそれ以上は勧めてこず、野枝実がついばんだところを大きな一口で頬張った。
「あの先生、さっきはお金払っていただいてすみませんでした」
先生は湯気と吐息が混ざったような白い息を吐きながら、いいよそれくらい、と残りのあんまんを口に入れ、数口で食べきると煙草を取り出して一服し始めた。
「あの、こちらも一口いかがですか」
もらいっぱなしではいけない。野枝実はうつむきがちに自分の肉まんを差し出したが、そこには最初にかじったときの勢いのいい歯型がついたままであった。
あっ、と野枝実は先生の返事を聞く前に慌てて引っ込める。引っ込めながら歯型を消すように、はぐはぐっと花巻の両端を素早くかじり歯形を平らにしてなんとか体裁は整えたものの、一連の動きはなんとも奇妙なものになってしまった。
この一部始終をなんと説明していいかわからずただ黙り込む野枝実を見て、先生はすべてを理解したように笑った。
いただきます、と低い声が聞こえたかと思うと、やわらかな肉まんを持つ野枝実の手に先生の手が重なり、野枝実の手元に顔を近づけて、野枝実がかじった半月の先端を一口食べた。自分の手に添えられた先生の手、目を伏せた横顔、まばらなまつ毛、花巻にわずかに沈み込む唇、すべてがスローモーションのようになる。
放心しかけたような野枝実の横で先生は、こっちもうまい、と嬉しそうにしていた。
「夕飯これだけで足りるの?」
「はい、大丈夫です」
「それならいいんだけど、無理してないかちょっと心配だよ」
先生は煙を吸ってから、荒木は我慢強いからな、と付け加えた。
無理をするという感覚が野枝実にはよくわからないが、我慢をするということならわかる。心の奥の奥の奥の本当のところにある気持ちが流れ出てこないように、蛇口をきつく締めておくことだ。ふとした拍子にがたがたと暴れて外れそうになる蓋に、ぐっと体重をかけて抑えつけておくことだ。
「先生はこの後、学校に戻られるんですか」
「うん、まだもうちょっと仕事が残ってるからね」
「すみません、お忙しいときに送ってまでいただいて」
「大丈夫大丈夫。卒業式も終わってちょうど落ち着いたタイミングだから」
「そうだ、もう卒業式の時期ですよね……」
抽象的な話題が浮かんでは消え、結局何を話していいかわからず野枝実は沈黙する。先生も同じく黙って、遠くを見つめながら煙を吐き出していた。
「そういえば私事だけど、前より通うのが近くなったんだよ」
「お引越しされたんですか?」
「うん。前は井の頭線の浜田山ってとこに住んでたんだけど、そこのマンションは処分して別のところに引っ越した」
「処分しちゃったんですか、なんかもったいないですね」
「そうだね、でもかみさんと別れたときにそういう約束になったからね」
「えっ、別れたって、離婚ってことですか」
「そう。荒木たちの代が卒業してちょっと経った頃だったから二年くらい前かな」
ぶしつけに離婚という言葉を口にしてしまったことを反省したものの、引っ込みがつかなくなり理由を尋ねた。離婚に退職。聞きたいことがたくさんあったが、またあしらわれてしまいそうな気がした。
「いろいろあったんだけど、ざっくり言ったらまあ、子どものことだな」
子ども。先生は二本目の煙草に火をつけた。
「お腹の中にいた子どもが生まれてくる前に死んじゃって、それが二度目でね。お互いにいろいろ頑張ったんだけどなかなかうまくいかなくて、それで話し合った結果、離婚っていう運びになって」
煙を吐きつつ先生は淡々と言った。
先生から自分の話を聞くのは初めてのことだった。結婚しているということはなんとなく知っていたが、他の所帯持ちの先生と違って、そういえば湊先生から家族の気配を感じたことはなかった。
ただ、先生を大切に思い、見守っている人がすぐそばにいるのだろうということは、彼のいつもこざっぱりとした身なりや人当たりのいい穏やかな雰囲気から見て取れた。そのようなことを感じるたびに、野枝実は先生のことを遠くから愛おしいと思った。彼の家族に嫉妬や羨望を感じなかったのは、先生は最初から自分のものになどならないという前提があったからかもしれない。
奥さんのお腹を撫でる先生の大きな手が、嬉しそうなまなざしが、目尻のしわが、我慢したであろう煙草を挟む指が、少しだけ熱を帯びた目に浮かんだ。
「でも、もうだいぶ前の話だよ」先生は煙草を消して、戻ろうか、と野枝実を促した。
言われるままに車に乗り込み、気の利いたことが言えずうつむいていると、
「変な話してごめんな。さっき荒木が言いにくいこと話してくれたからと思って、そのお返しにってわけじゃないんだけど」
「私こそごめんなさい。こんなとき、なんて言ったらいいかわからないんです。そんな大変なことがあったなんて」
「まあ、どうしようもないことだよね」
二人の声は反響せず密室の車内に吸い込まれた。
背後の道路を車が一台滑っていく音が聞こえた。少しの沈黙の後、野枝実は切り出した。
「先生、そんなことがあった時期に変なこと言ってごめんなさい」
「変なことって?」
「卒業式の前日に、お時間を取ってもらって、その……お時間を取ってもらったじゃないですか」
「お時間なんて取ったっけ」
「なんというかその、昔、告白、のようなことをしたじゃないですか、先生に」
自分から切り出しておきながらなかなか直接的に言えなかった野枝実の横で、先生は前を見据えたまま「あったねえ」と笑った。
「全然変なことじゃないじゃん。嬉しかったよ」
先生はさっぱりと言いながらエンジンをかける。
「悪い意味じゃなくて、今まですっかり忘れてた」
「いいんです、恥ずかしい思い出なので忘れてください」
「でも、今言われて思い出しちゃったよ」
顔がかっと熱くなるのを感じ、野枝実はまたうつむく。照れ隠しに笑いながら返す言葉を探していると、先生は仕切り直すように言った。
「高校生活は、どうだった」
「楽しかったです」
野枝実の極めて凡庸な返しに先生は「楽しかったなら何より」と微笑む。
「最近、荒木たちの学年のことをよく考えてたんだ。だから今日会えたのは、偶然にしてもほんとに嬉しかった」
「え、どうして私たちの代のことを?」
「やっぱり入学から卒業まで受け持った学年だったからかな。今も担任で持ってるところはあるんだけど、もう最後だから卒業まで面倒見られないし」
最後、の響きがやはり胸にのしかかる。
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