2-8. ふたりきり[1]
夜が深まり、風がぐっと冷たくなっていた。裏庭の緑は暗闇の中で塊のようになって揺れ、左右あちこちでかさかさと音を立てている。
先生に退職の話を詳しく聞こうとしたら軽くあしらわれてしまった。次の仕事のことで声をかけてくれてる人がいるんだよね、などと言ってから、「もう遅いから帰ろう、車に自転車乗っけて送っていくから」と切り上げられ、二人は再び誰もいない校舎を歩いてきた。
なんかずるい、と野枝実は思った。先生の声色からほのかな拒絶を感じ、踏み込みすぎたことを一旦は反省したものの、うまく反省できずに胸の奥がもやついた。先生が優しい言葉をかけてくれたから、あんな風に、子どもみたいに笑うから、わざと近づいてみても離れていかなかったから、そのせいで思い上がってしまったのだ。
駐車場に近づき、ポケットをまさぐって車のキーを出しながら、そうだ、と先生は思い出したように言って、
「ここで一人にしちゃいけないんだった」
屈託なく笑う先生に野枝実は何も言うことができない。もう平気だと思っていたのに、先生の声が、表情が、仕草が、ふいに野枝実の中に入り込んでどうしようもなく膨張する。
車に乗り込んでエンジンをかけるとメーターパネルが光り、運転席をぼんやりと薄明るく浮かび上がらせる。ボリュームを落としたFMラジオから野枝実の好きな曲のイントロが流れ始め、あっ、と思わず弾んだ声が出た。
「知ってる曲?」
「はい、アイリに……山口さんに教えてもらって好きになったんです」
じゃあもう少し音量上げようか、と先生がカーステレオに手を伸ばす。暗い車中でぽちりと点灯した三角のボタンに、中指の短く切り揃えられた爪先が一瞬浮かび上がった。
通り過ぎるオレンジ色の街灯に時折白色が混じる。街路樹の葉たちが風に吹かれて細かく揺れている。
物寂しいリフレインが予備校からの帰り道に伸びる濃い影を、昼間の熱気をため込んだアスファルトに伸びる濃い影を、夜九時を過ぎてもどっしりと蒸し暑い帰り道を、そこにほんの少し漂う秋の気配を、冷房のきいた予備校の教室を、やたらと明るい白昼色の蛍光灯を、疲労した目元の筋肉と頭脳の重量を、すべてを連れてきた。一番この曲を聴いていたころのこと、はるか遠くに感じる今夏のできごとであった。
「このへんだったっけ」自宅が近づき確認する先生に、野枝実は、あの、と言葉を挟んだ。
「できれば家に帰る前に夕飯を買っていきたいんです。今、家に何も食べるものがなくて」
言ってから途端にみじめになり野枝実はうつむく。
「そうか、お母さん今日いないのか」
「はい、今日だけじゃなくて最近ずっとこんな感じで」
「家で一人ってことか、それは心細いな。お母さんは仕事がお忙しいの」
「仕事もそうなんですけど、なんか最近恋人ができたみたいで、」
気持ちが緩んでふと口を滑らせたことに気づき、野枝実は口をつぐんだ。
「そうなの?」しかし先生はあくまで屈託なく、驚きを含んだ声を野枝実に返す。その素直な反応に、先生に話したいことがぽつぽつと頭の中に落ちて、それらはすぐに言葉になった。
母が最近ほとんど帰ってこないこと、母に恐らく恋人がいること、どうやら野枝実がいない間に自宅で逢瀬を重ねていること、だから最近家にいても居心地が悪いこと。
話しながら自分は何を言っているんだろうという思いがした。その場しのぎに頬をぽりぽりかきながら苦笑して、野枝実は先生の反応をうかがった。
「すみません、反応しづらい話を聞かせてしまって」
「今日は帰ってくるの?」
「たぶん夜遅くには……。でもそれもわからないです、帰ってくるって言っても最近は一晩中帰ってこないときもあるので」
そっか、と相槌を打つ先生はそれ以上無遠慮に踏み込んではこない。
視線の先にあるマンションは、点々とあかりが灯った黒い巨大な箱のように見える。箱のどこかであかりが灯り、素早くカーテンが閉められてすぐに暗くなった。
少しの沈黙の後、じゃあさ、と先生は口を開いた。
「ちょっと寄り道してこうか。夕飯、一緒に買うか食べるかしようよ」
目の奥に見えた小さな煌めき、こっそり秘密を共有するような煌めきに野枝実は胸がいっぱいになる。しかしそれを気取られないよう努めて平静に、
「じゃあ、コンビニで晩ごはん買ってもいいですか」
「コンビニでいいの?」そう言いつつ先生は車を走らせる。
街灯が滑るように流れていき、車内はあたたかいオレンジ色に包まれる。オレンジ色とオレンジ色の間に、車通りの少ない道路に面して煌々と白く光るコンビニがぽつんと建っていた。
車から降りると容赦のない鋭い風に全身が震え、野枝実は羽織っていただけのコートを慌てて着直した。道路を挟んだ向かいには住居兼作業場のような小さなビルがあり、一階のシャッターは閉ざされ、風に吹かれてがたがた音を立てている。なんだか侘しい周囲の風景を見回していると寒さと相まって心細くなり、先生の背中を追いかけた。
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