1-3. 帰り道、男[2]
ふと髪に何かが落ちてきたような感触がした。葉っぱとも虫ともつかないそれを手で払おうとうつむいたまま髪に触れると、生あたたかくやわらかい感触を指先に感じ、野枝実は無言で飛び上がった。飛び上がったときに頭皮が引っ張られる痛みとともに、ぶち、という音が耳の奥に響いた。
電化製品のコンセントを無理やり引き抜いたときのような音。頭頂部の痛みとともに顔を上げると目の前に知らない男がいた。男は親指と人差し指で毛束をつまんでいた。細く長い髪、自分の髪の毛を抜かれたのだということがそのときわかった。
声が出ない。立ちすくむ野枝実を凝視しながら、男はつまんだ毛束の一部を口に入れ、残りをズボンのポケットにもぞもぞと入れた。
声が出せない。男の顔は帽子と逆光で見えないが、野枝実の髪をもさもさと咀嚼しながら異様に滑らかに動く厚ぼったい唇が、光の加減と相まって黒い毛虫のようだった。緩い上着、緩いシャツ、緩いズボン、何もかもがちぐはぐな男のシルエットはぶよぶよの泥人形のようだった。
「血液型何型ですか?」
唐突に男が口を開く。抑揚のない、カセットテープを早回ししたみたいな恐ろしい早口だった。
野枝実は声が出ない。声が出ないまま浅い呼吸を繰り返していた。浅い呼吸では脳に酸素が行き渡らず、だんだん胸が苦しくなって血の気が引き、下腹部のあたりが締めつけられ、強い西陽を浴びながら逆光とともに目の前がゆっくりと暗くなりそうになる。
怖い。目線を下にそらすと、野枝実の靴先のすぐそばに男の靴先があった。野枝実は息を呑み、初めて声にならない声のようなものを上げた。
背後は外壁で後ろには逃げられない。横に体を滑らせたら腕をつかまれるかもしれない。どうしよう。誰かの助けを呼びたい。正面には男の顔がある。目線の下には男の足がある。花が腐ったような臭いがした。顔をそむけたい。でもどこを見たらいいかわからない。
せめてもの防御をしようと、野枝実は肩にかけた鞄を胸の前でぎゅっと抱きしめた。鞄につけたキーホルダーを見て、あっ、と声を出す。ビーズクラフト部で作ったコスモスのキーホルダー。これもさっきの髪の毛みたいに引きちぎられたらどうしよう。鞄を抱いた野枝実は反射的に男に背を向けようとした。
背を向けようとしたときに足首をひねり、野枝実は前のめりに転倒した。足元から崩れ落ち、アスファルトに膝を打ちつけた。遅れて地面についた両手のひらも擦りむいた。
男は突然目の前で転倒した野枝実に驚いた様子で一歩後ろに遠ざかったが、そこから立ち去る気配はない。ぬらりと立ち上る陽炎のような気配で野枝実の様子をうかがっているのがわかった。
野枝実は立ち上がろうとするが立てない。声も出ない。悪い夢を見ているみたいに、体が何一つ思うように動かない。スカートは大きくめくれ、後ろで結んだ髪もぐしゃぐしゃになっている。両手をついたアスファルトはなぜか濡れていて気持ち悪い。膝が痛い。見ると大きく擦りむいて血が滲み、傷口が黒く汚れている。
もうだめだ。もう動けない。野枝実はその場にうずくまった。目を閉じ、体を固くして丸まった。
それからどれくらい時間が経ったのかわからない。次に野枝実が顔を上げたのは、防犯ブザーを鳴らしたともちゃんと菅原先生が駆けつけてくれたときだった。
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