1-4. 保健室

 保健室の洗面所で野枝実は手を洗い、それから膝を洗った。傷口には泥や砂利が入り込んでいて、直接手を触れてそれらを洗い流さなければならなかった。流水がしみて痛く、傷口に手を触れるともっと痛く、野枝実は小さく顔を歪めた。


 保健室の長谷川先生が両手のひらと膝を丁寧に消毒して大きな不織布の絆創膏を貼ってくれた。

「これでよし。今日と明日くらいはお風呂のときにしみるかもしれないけど、我慢ね」

「はい、ありがとうございます」

「大変だったね。怖かったでしょう。あの近くで先月も不審者が出たんだって。同じ人かもしれないね」

「はい……」

 野枝実は曖昧に頷く。手を動かすと絆創膏がごわごわした。今は声が出るようになったけれど、今度は言葉が出てこない。心配してくれてありがとうございます。怖かったです。膝が痛いです。何かを言いたい。


 長谷川先生はのっぺりした顔でのっぺりした声を重ねてくる。

「どう、まだ痛い?」

「はい、動かすとちょっと」

 

 保健室に向かうまでにともちゃんはいつの間にかいなくなっていた。心配したお母さんが迎えに来たのだという。


 転んだときに落とした野枝実の体育着バッグは、菅原先生が保健室まで付き添って手渡してくれた。昨日ともちゃんと一緒に買ったストラップは何事もなかったかのように体育着バッグの持ち手のところで揺れており、それを見て野枝実は初めて安堵した。


「これから鈴木先生がいらっしゃるからね。先月も不審者が出たからちょっとだけ話を聞きたいんだって」

 長谷川先生がそう言った直後、保健室の扉が開いて学年主任の鈴木先生がやって来た。野枝実はこの日、鈴木先生から英語の答案を返してもらったばかりだった。

 英語は野枝実の得意教科である。テストも九十点台と上々の結果で、返却のときには皆の前でクラス最高点だと褒められた。そんなことももやがかかったような、まったく別の日のできごとのように感じる。


 鈴木先生は、保健室の固いソファに野枝実と少し間を空けて座り、膝の上に小さなメモ帳を広げながら男はどんな服装だったか、どの方向から現れたか覚えているかなどを野枝実に尋ねた。


 今年赴任してきていきなり主幹という役職に就いた鈴木先生は、とにかく張り切っている先生という印象だった。主幹、というのがどのような立場なのか野枝実にはよくわからなかったが、「主」な「幹」だからきっと実力があるということなのだろうと思った。

 実際に、鈴木先生の堂々とした話しぶりは一寸の隙もなくいつも教室の空気を司り、小柄でどっしりとした体格はまさに樹齢が凝縮された木の幹のようだった。

 よく通る声に大きな身振り手振り、無駄のない言葉、わかりやすくて楽しい授業。鈴木先生の授業を受けていると「先生」という役のお芝居を見ている観客のような気分になった。


 しかし今、野枝実はそのような張り切りによってすっかり萎縮させられてしまっている。

「転んだのは、相手に触られたりつかまれたりして逃げようとしたからじゃないんだね?」

「はい、そうじゃなくて……気がついたらその人がすごく近くにいて、怖くて、横に逃げようとしたら足をひねっちゃって……」

「つまり相手は一切手を出してきていない、と」

「はい、自分で転びました」

 説明しながら自分の鈍くささが情けなかった。


 野枝実はできる限り正確に答えたいと思ったが、思い出そうとしても西陽の激しい逆光しか目に浮かんでこなかった。目の前でカメラのフラッシュを焚かれて思わず目を閉じるみたいに、そのときのできごとは途端に真っ暗になってしまう。でもそれは本当に真っ暗になっているわけではなくて、大島くんのことで気持ちに蓋をしたときのように、努めて思い出さないようにしているのだということを野枝実はどこかでわかっていた。


「オーケー、わかった。ありがとう、荒木さん」

 一通りの質問を終えた鈴木先生は、メモ帳をパタンと閉じて野枝実をじっと見た。

「少し様子を見て、場合によっては警察に相談しよう。今度の会議で先生が提案してみるよ。今回荒木さんは直接被害を受けたわけじゃないけど、このあたりで不審者情報も多いし心配だからね」


 警察。野枝実が思わず顔を上げると真剣な顔つきの鈴木先生と目が合った。眼鏡の奥にある丸い優しげな目をふいにまっすぐに見てしまい、野枝実はすぐに顔をそむける。彼の濃い眉毛と毛深い手の甲は、先ほどの男の黒い毛虫のような唇を想起させたからだ。野枝実は先生に見えないように目を閉じた。


 警察。その響きに不安になる。それと同時に、髪の毛を抜かれたことは言い忘れたのを思い出した。でも今からそれを言い出したら、きっともっとややこしいことになってしまう。

 野枝実は無言で頷いた。何かを言おうとすると蓋がずれてしまうような気がした。ぐっと固く締めた蛇口が緩んで水があふれ出してしまうような気がした。


 意外と我慢できるんだな。野枝実は思いのほか冷静に自分の我慢強さを分析する。自分のことを少しだけ強いと感じ、その後すぐに心臓がぎゅっと縮んだ。


「それじゃ、気をつけて帰るんだよ」そう言って颯爽と保健室を後にする鈴木先生は、こんなときもなんだか芝居がかって見えた。

「おうちの人に連絡するね、迎えに来てもらおうね」

 鈴木先生が去るとすぐに長谷川先生は保健室の受話器を取った。連絡網らしき用紙を見つめ、野枝実の自宅の電話番号を探す彼女に野枝実は慌てて口を挟んだ。

「あの、親は仕事で、ちょうど今帰ってるところだと思うので、連絡がつかないと思います」

「お母さんもお仕事なの? お母さんの携帯は?」

「移動中はいつも出ないです」

「じゃあお父さんの携帯とか、お勤め先とか」

「……番号がわからないです」

 矢継ぎ早に投げかけられる長谷川先生の質問を、野枝実はどうにかごまかした。母が仕事から帰っているところというのは本当だが、父のことについては咄嗟に思いついた嘘だった。野枝実には父がいない。


「そう、じゃあちょっと待っててね……」

 長谷川先生は小さくため息をついて面倒くさそうな様子で、受話器を耳に当てたままどこかの番号を手早く押し始める。内線で職員室に電話しているようだった。


 父についての記憶は一切ない。物心つく前に離婚したという父がどんな人だったか、写真も残っていないので顔もわからない。子供のころ母に、どうしてうちにはお父さんがいないのかと他愛なく尋ねるたびに言われてきたことを思い出す。


 お父さんはね、お母さんも知らない間にいなくなっちゃったの。ううん、死んじゃったわけじゃないよ。元気で暮らしてるんだよ、遠いところでね。でもね、離れててもお父さんは野枝実のことが、ずっとずーっと大好きなんだよ。お母さんが野枝実を大好きなのと同じくらい、とーっても好きなんだよ。野枝実の名前も、お父さんが考えてつけてくれたんだよ。


 ずっとずーっと大好き、のところを繰り返し聞きたかった野枝実は何度も同じことを母に尋ねた。ねえねえ、どうしてうちにはお父さんがいないんだっけ。今となっては残酷なことを聞いていたと思うが、母はそのたびに、野枝実を膝に乗せて同じことを初めから言って聞かせてくれた。絵本を読み聞かせるようなゆっくりとした調子が幼い野枝実には心地よく、その物語が自分のことを大好きなお父さんの話なのだと思うたびにじんわりと幸福であった。


 父のことを少し不憫に思うことがある。父が自分のことを大好きだったというのが本当なら、生まれてから今に至るまで父の記憶が自分の中からすっかり抜け落ちているので、父のその思いは完全に一方通行だからだ。

 不憫だ、とどこか距離感を持たせているのは、それ以上の気持ちを抱いた途端に顔も知らない父が輪郭を帯び、陰影を持ち、目の前に現れてきそうで怖くなるからであった。


 疲れて呆けた頭脳に任せてそんなことを考えていたらまたしても蓋が外れそうになり、野枝実は煙を散らすように父のことを頭から消した。


 長谷川先生はようやく受話器を置き、野枝実のほうへ向き直った。

「よかったね、湊先生が送ってくださるって」

 早く一人になりたいというのに、湊先生の名前を聞いてまた心臓がぎゅっとなる。もうこれ以上誰かに心配されたくない。

「送ってもらわなくて大丈夫です、一人で帰れます」

「だめ! こんなことがあった後に何言ってるの。もう真っ暗なのよ。おうちも遠いでしょう」

 長谷川先生が語気を強めてまくしたてる。正論で追い詰めてくる彼女の口調が野枝実は苦手だった。

 今日はこういう日なのだ。先生オールスターの日。長谷川先生、鈴木先生、警察、湊先生、ぎゅっ、野枝実は観念してうつむく。緩みそうになった蛇口を閉めようと歯を食いしばった。


 程なくして保健室の扉が開き、野枝実を迎えに来た湊先生は大きな体を折り曲げるようにして入り込んできた。

「大変だったなあ、怪我しちゃったんだって? 車まで歩けそう?」

 大柄な先生に野枝実は少し身構えながらも、ぱっと電気がついたような明るい声にどこかで安堵する。今までずっと強張っていた体が、少しだけほぐれたような気がした。

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