1-5. 体温

 外はもうすっかり真っ暗になっていて、暖房のきいていた保健室を出た野枝実は寒さに身震いした。今、何時なんだろう。


 L字の校舎の外側を囲む裏庭を通って駐車場へと向かいながら、野枝実は湊先生の後ろについて黙って歩いた。

「八嶋先生に家の場所、聞いたよ。結構遠いところから通ってるんだな」

 少し歩いたころ、湊先生が歩調を緩めて振り返り野枝実の横に並んだ。

「最初は遠く感じましたけど、今はもう慣れました」

「歩くとどれくらいかかるの」

「だいたい三十分くらいです」

「結構かかるな、往復一時間か。いい運動だな」


 湊先生の心地よい低い声に少しずつ気持ちが緩んでゆく。その声は授業中よりずっと優しくやわらかく、別人のようだった。

 授業のときは声を張っているだろうから印象が違って当たり前か。安心しながら野枝実はそんなことを思う。

「自転車で来れたらいいのにな」

 先生は言ってからすぐに「あ、自転車通学は禁止か」と一人で納得した。

「自転車で行くの、私も前に考えたことあります」

 固い表情のまま野枝実は先生を見上げた。先生は「やっぱり?」と野枝実を見返して笑う。こっそり秘密を教えてもらった子供が小さく目を輝かせたときのような煌めきが、先生の目の奥に見えた。


「今みたいな季節に自転車で走ったら気持ちいいよね」

 よく晴れた秋の昼下がり、自転車を走らせたときの風のような匂い。先生の声はそんな軽やかな匂いを想起させた。野枝実も先生と一緒に笑いたかったが、顔がひきつってうまく笑えない。


 裏庭の突き当たりにある駐車場が見えてくると先生は「今、車出すから」と立ち止まった。ジャケットのポケットに手を入れて車のキーを取り出す。車の向きを変えてから野枝実を乗せるつもりのようだった。


 先生がそばを離れたとき、野枝実は突然不安になった。

 一人になるんだ、と思った。もったりと湿り気を帯びた夜の冷気が全身にのしかかってくるようだった。あたりが暗い。駐車場の蛍光灯のあかりが冷たい。空気が冷たい。


「あの、」わき上がった気持ちに蓋をするのが間に合わず、声が口をついて出た。

「ちょっと待ってください」

 でもその先がどうしても出てこない。先生は振り返って自分を見ている。何か続きを言わないと。


 顔がみるみる熱くなり、その熱が目からこぼれた。慌てて手で受け止めようとすると、それまで固く閉じていた蛇口から堰を切ったように次々と気持ちがあふれ出た。


 見知らぬ男。髪の毛を抜かれた。痛かった。それを食べられた。怖かった。毛虫のような唇。残りの髪の毛はきっとまだ男のズボンのポケットの中にある。男の体内で消化される髪の毛。自力で逃げられなかった。一人ぼっちだった。声も上げられなかった。膝と手のじんじんする痛み。大人たち。心配する大人たち。こんな大事になっている。いつの間にか。お揃いのストラップ。大島くん。助けて。警察。


 今日一日のことが一度に頭をかけめぐったが、野枝実は何一つ言葉にすることができなかった。熱い涙が次々とこぼれ落ち、制服の袖とアスファルトを濡らした。息をしようとするとしゃくり上げるようになり、そんな姿を先生に見られていると思うとますます顔面が熱くなり涙がこぼれた。


「ごめんなさい、あの……えっと……」

 何か言わなければと口にする言葉もままならない。学校でこんなに泣いたことなんてないのに。


 野枝実は顔を覆い、しゃくり上げて泣いた。熱い息が満ちてどんどん息苦しくなっていく両手の隙間で、湊先生が一歩近づき目の前にしゃがみこむ気配がした。涙でぐしゃぐしゃになった顔の行き場がなくなり、野枝実はその気配の中に顔から飛び込んだ。


 よく乾いた洗濯物の匂い、その繊維の奥にしみ込んだ煙草の匂い、その一番奥にコーヒーの匂い。先生の胸に顔をうずめて野枝実は夢中で呼吸していた。乱れた髪が、丸く縮こまった背中がやがてあたたかく抱きとめられた。先生の腕に、先生の体温に野枝実は抱きとめられていた。


 男の人に抱きしめられるのは初めてのことだった。どれくらいそうしていたかわからない。ただ、大人の男の人の体にも自分と同じようにやわらかい部分があり、あたたかい毛布のようで、しかしやわらかさの奥には硬い筋肉と太い骨があるということがわかった。

 野枝実の目の前には先生の胸がある。分厚くてあたたかい。先生の心臓の音が聞こえるかもしれないくらい間近にあったが、それ以上に今は野枝実の心臓のほうが大きく脈打っていた。


 先生は野枝実の背中に手を回し、もう片方の手でそっと頭をなでた。背中に頭に触れる先生の大きな手が、優しい手形のように野枝実に刻印される。先生の手のあたたかさが野枝実の体に伝わり、そのあたたかさが野枝実のあたたかさとなり、体全体にじんわりと広がった。

「大丈夫、大丈夫」

 野枝実の耳元で先生はくり返していた。眠ってしまいそうなくらいに安心する声だった。真夜中の海に静かに寄せる、穏やかな波のような声だと思った。


 涙はいつの間にか止まり、野枝実は泣き疲れた子どものように目を閉じていた。先生は野枝実の呼吸が落ち着いたとわかると、ゆっくりと体を離してからもう一度頭をなでた。

「ごめん。一人にさせちゃったな」

 涙でぐしゃぐしゃになった顔はまだ熱く、鼻で息をしようとするとずるずるっ、と情けない音を立てた。


 先生は野枝実を見ていた。野枝実も先生を見た。こんなに近くに男の人の顔があるのも初めてだった。

 暗闇の中で先生が微笑んだとき、少し重たそうな二重のまぶたがやわらかくしなり、目尻に優しげなしわが幾重も刻まれた。野枝実はそこから目を離すことができない。自分が今どんな顔をしているのかわからないが、泣きはらした顔はきっとブスだろうなと思う。


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