1-6. 帰り道、車の中
先生は野枝実を先に助手席に乗せ、それから車を出してくれた。最初、後部座席に乗り込もうとした野枝実に先生は「こっちにおいで」と助手席に促し、「タクシーじゃないんだから」と笑った。助手席のドアを閉めてから車の背後を通って運転席へ向かう、小走りの足音が車内から聞こえた。
「何かかけようか」
先生がエンジンをかけると、カーステレオからボリュームを落としたFMラジオが流れ出す。
車内の風景はラジオから流れる楽曲のように軽やかに過ぎ去った。対向車のヘッドライト。赤信号。青信号。オレンジ色の街灯。暗い車内で光るメーターパネル。マンションの窓から漏れるあかり。種々の光が先生の横顔を少しだけ照らしては通り過ぎてゆく。
「あの……さっきはごめんなさい。先生のシャツ、汚してしまって」
赤信号で停車したとき、野枝実は先生に切り出した。先生のシャツが涙で汚れてしまっただろうと思った。
「何だっけ」
先生は不思議そうな顔を向ける。意外な返答に野枝実は目をそらし、ずっと前を見ていたふりをした。
「さっき私が泣いちゃったとき、先生のシャツが……」
「ああ、あれね。大丈夫大丈夫。あんなの汚れたうちに入らないよ」
先生はさっぱりと言い放ち、ほら、全然汚れてないよ、と運転しながら野枝実に向かってジャケットをはだけてみせる。先ほどあんなに泣いた涙の跡は確かに乾ききって、何事もなかったようになっていた。
自宅が近付くとマンションの車寄せのところに母が待っているのが見え、今日のことが伝わっているとは思っていなかった野枝実の内心は途端にざわついた。車を近づけながら「お母さんかな?」とつぶやく先生に野枝実は何も言えないまま、車は母の近くに停車する。
「降りられそう?」
先生が野枝実の顔をのぞき込む。湊先生と車外の母の姿に挟まれ、野枝実は体が思うように動かない。うつむいたまま何も言えずに躊躇していると先生は、
「ご挨拶してくるからちょっと待ってて」野枝実の肩をぽんと叩いて外へ出た。
肩に残る手の感触。野枝実は気づかれないように小さく全身を震わせた。
降りるタイミングを逃してしまった。母と先生の会話は車内の野枝実にはよく聞こえず、無声映画のように動く二人をただ見ていた。
母はぺこぺこお辞儀をしながら困ったような顔で先生に謝っている。年齢の割に長身な母と並んでも先生の大きさは際立っていた。チャコールグレーのジャケットを着た背中には不思議と威圧感がなく、先ほどあの大きな体に包まれたと思うと胸がつかえた。学校を出る前、保健室で感じたぎゅっ、とは違う苦しさだった。
話しながら母が車の中の野枝実に顔を向ける。視線を浴びた野枝実は座席の中で居心地が悪く、とりあえずシートベルトを外した。
先生にドアを開けてもらい車から降りると、母は困った顔のまま「大変だったね」と野枝実の肩を抱いた。ほんの数十分前、先生に抱きしめられた体だ。野枝実は曖昧に返事をしながらうつむいて顔を隠した。
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