1-7. 食卓

 その日の晩ごはんは野枝実の好きな鶏大根だった。母の作る鶏大根には少しだけ豆板醤が入っていて、照りが出た大根や手羽元から刻み唐辛子の小さな赤い欠片が時折現れる。以前、母が同じく豆板醤を入れて作ってくれた挽き肉と野菜の中華スープを、野枝実はおいしいと言って何杯もおかわりした。それ以来、中華のおかずを作るときには母は必ず豆板醤を少し混ぜて作ってくれる。


 娘が不審者に遭遇し、怪我までして帰ってきた日の食事は、さぞ重苦しく居心地の悪いものだろうと野枝実は覚悟して食卓についたが、母はいつもと変わらず穏やかな態度だった。努めてそうしてくれているのか、無事に帰ってきて安心してくれたのか、ダイニングテーブルの向かいに座る母の心中を察する気力は残っていない。


「湊先生って今日初めてお話したんだけど、優しい先生ね」

 母が先生の話題を口にし、なんとも言えなかった野枝実は、大根を口に含んだまま、うん、と返事をした。

「何の教科の先生だっけ?」

「理科の先生」

「理科といえば、中間テストはどうだった? もう返ってきた?」


 つれない返事ばかりの野枝実のほうへ母が顔を近づける。野枝実はそれを振り払うように、

「今そんなこと聞かないでよー。後でちゃんと見せるから」

「後で後でって、そうやっていつも忘れちゃうじゃない。そういえばもう返ってきた他の答案も、お母さんまだ見てないよ」

 母の小言を遮るように、んもー、と野枝実は重い腰を上げた。リビングに放り投げた鞄からクリアファイルを探し出し、今日返された答案を抜き取るとぶっきらぼうに母に手渡した。


「お、英語九十四点! 優秀優秀」

 答案を順番に確認していた母は程なくして吹き出した。

「ふふ、なにこれ」

「あっ、違う。これはテストと一緒に帰ってきた実験の、」

「なにこれ、かわいいー」

「もう、お母さんまでやめてよー。これ、私じゃなくてともちゃんが描いたんだよ。湊先生にもからかわれて恥ずかしくて……」

 そこで言葉が詰まってしまった。


「ともちゃんかあ。言われてみると、なんかともちゃんらしいねえ」

「ともちゃんは、そういうのぱぱっと描くのうまいんだよ」

 言いながら野枝実はこの日久しぶりに笑った。母も安心したように笑う。

「理科の授業、わかりやすい?」

「うん、わかりやすいよ」

 母は、そうかそうか、と嬉しそうに言いながら思い出したように立ち上がって、キッチンのあかりと換気扇を消した。使ってないところの電気は消す、と野枝実は普段から母に口うるさく言われている。


 少し前までは母のことを、晴美さん、と呼んでいた。

 本当の母は野枝実が産まれたときに死んだ。野枝実を生かすか母体を生かすかの瀬戸際で、母は野枝実の命を選んで死んだ。父が今の母と再婚した矢先、今度は父のほうが姿を消してしまったのだった。

 昔、父と三人で住んでいたころは今の住まいよりも広いマンションを借りていたらしい。父がいなくなり離婚ということになってからすぐにそこは引き払い、現在は1LDKのマンションに母と野枝実の二人で住んでいる。


 リビングダイニングの隣には母娘共同の寝室があり、そこへ続く廊下の電気がつけっぱなしのとき、それを消しに行くのは野枝実の役割である。キッチンのあかりが消えた今は、ダイニングテーブルの真上にぶら下がっているペンダントライトだけが食卓を照らしている。

 ここのところ母はずっと夜勤だったので、今日のように一緒に夕飯を食べるのは久しぶりだった。看護師として働く母が夜に家にいるのは週の半分ほどで、夜勤の日には野枝実は母が作っておいてくれた作りおきのおかずをあたため、一人で夕食を済ませる。


「ねえ野枝実、今からでも塾に申し込んでもいいんだからね。英語や国語はよくできるから大丈夫だろうけど、ほら、数学とか」

「大丈夫だよ、授業でもらうプリントの復習してるから。私立の過去問も載ってて、塾に行ってる子もそのプリント復習してるって言ってたし」

「そのプリントは土井先生が作ってくださってるの?」

「そうだよ」

 へー、と母は感心したように言い、

「そんなの作ってくださるなんてありがたいねえ」


 空返事をしながら湊先生のことをぽつぽつと思い出していると、いつしか頭の中は湊先生のことでいっぱいになる。大ぶりに切られた大根を一口で頬張ると、じゅわっとみずみずしい匂いが鼻に抜ける。


 ぐったりと疲れた野枝実はいつもより早く床に就いたが、夜中に一度目が覚めた。

 風が窓ガラスを揺らして音を立てていた。ゆらりと目を開けると外灯がカーテン越しに少し入り込んできていて、天井の蛍光灯の丸いカバーや、布団から出た自分の腕や、枕元に置いたミニラジオの輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。静かな部屋の中には、野枝実と反対側の壁沿いにベッドを置いて寝ている母の小さな寝息だけがあり、しばらくそれを聞いていると窓の外でオートバイが一台通り過ぎていく音が聞こえた。


 野枝実は何度寝返りを打っても落ち着かず、ゆっくりとベッドから起き出した。物音を立てないように一度トイレに行き、戻って母が変わらず眠っていることを寝息で確認すると、ハンガーにかけてある制服にそっと顔を近づけた。暗い部屋の中、手探りで探り当てた先生の匂いがそこにあった。

 満足しながら野枝実はベッドに戻った。布団にくるまると自分の体温で体全体がふかふかとあたたかい。抱きしめられているみたいだと野枝実は思う。

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