1-8. 好きな人
光陰矢の如し。国語の授業中、担任の八嶋先生が黒板に書いたその文言を、野枝実はぼんやりと眺めていた。心ここにあらずであった。
教室の窓の向こうには澄み渡った冬晴れの空が遠くまで続いている。たっぷり降り注ぐ日差しで教室の中は弛緩してしまうようなあたたかさで、ふわふわと心地よい眠気がすぐそこまで来ていた。
あの奇妙なできごとがあってから、ただでさえ受験勉強でせわしない毎日が更に加速して通り過ぎていった。あっという間に年が明けて冬休みが終わり、気づけば私立高校の入試が目前に迫っていた。私立が第一志望のともちゃんとは一緒に帰ることもなくなり、野枝実は毎日図書室に通い続け校庭を横切り続けたが、結局湊先生には一度も会えなかった。
しかし、午後五時の部活終わりを狙って先生の姿を一目見るという他に、野枝実はもう一つの手段を学んだ。それは美術部のアイリのおかげであった。
年明けからよく図書室で顔を合わせるようになったアイリと、お互い五時まで残っているときには一緒に下校するようになった。
湊先生のことが好きだということをアイリにだけは打ち明けた。ある日の帰り道、アイリの前でうっかり口を滑らせたのだった。
「野枝実ちゃんっていつも五時までいるよね。誰か待ってるの?」
「ううん、待ってるんじゃなくて勝手に見てるだけなんだよね」
しまったと思い野枝実は慌てて弁解しようとしたが、アイリはすかさず「えっ、それってもしかして片思い的なやつ?」と畳みかけてきたので、その勢いに負けて打ち明けてしまった。
野枝実は不審者事件のときからの経緯を話したが、先生に抱きしめられたことは言わなかった。湊先生のことを話していると顔が徐々に熱く火照り、歯止めがきかず次第に早口になっていくのがわかった。
しかしアイリは野枝実の告白を聞いてもあっけらかんとしていて、
「でも、私も湊先生は何気にかっこいいって思ってたよ」
その言葉に野枝実は拍子抜けした。四十手前のおじさんじゃん、だとか、結婚してるじゃん、といった常識的なことを言われて終わりだと思っていたからだ。アイリは更に続けた。
「もうイケメンって言うような歳じゃないけどさ、顔のパーツとか整ってるし、若いときはイケメンだったよなって顔だよね。今もよく見たら結構男前だしさ」
「だよね、やっぱりそう思うよね」
「野枝実ちゃん、テンション上がっててうける!」
三年生の初夏、修学旅行のときアイリに突然「美乳ですね」と言われたことを思い出した。大浴場の脱衣場で、たまたま隣同士で着替えていたときのことだった。
言われた野枝実は動揺し、思わず胸元を脱ぎかけていた服で隠した。アイリはそんな野枝実の反応はさして気にする様子もなく「そのブラもかわいいよねー」と更に野枝実を褒めた。胸が大きくなり始めた中学一年生のときに母が買ってきた、白地にところどころ花模様の刺繍が施されている綿のブラジャーだった。
アイリのあまりにさっぱりとした態度にそのときは戸惑ったものの、野枝実は彼女の飾らない雰囲気が好きになった。
眠たそうな幅の広い二重の目。真ん丸の茶色い瞳に細く長い茶髪、透き通るような白い肌。アイリの第一印象は儚げだが、その可憐な顔はよく笑い、漫画のようにくるくると表情が変わり、あまりにも白いその肌の内側にはしたたかな肉体が備わっている。にもかかわらず思春期の汗臭さや生々しさがまるで感じられない彼女は自由闊達な人形のようで、野枝実はそのようなところが魅力的だと思った。それはともちゃんに感じた健全な色気とは正反対の魅力のように思えた。
また、彼女は美術部で制作している同人誌の関係でよく際どい下ネタを口にしていて、そういった話題にまったく抵抗がないところもよかった。野枝実は密かに興味を持っていたものの自ら口にする勇気などなかったので、憧れに近い気持ちかもしれない。野枝実は同じ美術室の一角でビーズをいじりながら、そのめくるめくピンク色の話にこっそりと耳を傾けていたものだった。
ちなみにアイリの「美乳ですね」に対して、野枝実は咄嗟に「そんなことないよ。ビニュウって微妙の微でしょ?」と返した。我ながら気の利いた返答だったと今でも思う。アイリが豪快に笑ってくれたのも気分がよかった。
何を言おうか考えすぎた挙句に発言の機会そのものを逃してしまう野枝実は、ごくたまに満足のいく返しができたときはにわかに嬉しく、そんなときは心の中でいつまでもそのときの台詞を反芻して悦に入る。と同時に、そうして言い損ねた言葉、言いたかったのに飲み込んだ言葉たちはどこに行くのだろうと思うときがある。向かう先を失って死んでいった言葉たちが自分の内部に積もり積もっていくとしたら、いつか自分はそれらに飲み込まれて破滅するのではないかと思うときがある。
アイリはマフラーに顔をうずめ、しばらく何かを考えると大きな目を見開き、ぽんと手を叩いて言った。
「ねえ、じゃあさ、今度一緒に湊先生に質問しに行こうよ」
その手があったか。自分一人では絶対に到達しえない発想に野枝実は驚嘆した。
「そんなにびっくりすること?」アイリはまた手を叩いて笑った。
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