1-9. 放課後理科準備室冒険計画
それからすぐにアイリと二人で放課後理科準備室冒険計画を立てた。修学旅行の夜更かし計画などとはわけが違う、頭脳がひりひりと痺れるような計画だった。
前にも質問しに行ったことあるよ、とアイリはさらりと言い、
「湊先生、数学も教えてくれるんだよ。しかも土井先生より全然わかりやすいの」
そんなことを初めて知った野枝実はまたしても驚嘆する。しかし苦手な数学となると何がわからないのかわからない野枝実はどうしても質問が思いつかず、結局アイリが質問するところに同道するという、何とも情けない立場で放課後の理科準備室に進入することになった。今日は野球部の活動がないこと、先生は職員室にいないことは既に確認済みだというアイリの手際のよさに、野枝実は更に自分が情けない。
「湊先生、いつもだいたい準備室にいるよ。いろいろとめんどくさいから職員室にはあんまりいたくないんだって、前に質問しに行ったときにぶっちゃけてたよ」
それを聞いた野枝実は先生に親しみを覚えた。職員室の入りづらさ、入ったら入ったでまとわりつく得体の知れない居心地の悪さ。学校の職員室は野枝実にとって言葉にできない異様な空間であった。こういうところに居場所を持っている大人はちょっと嫌だなと思っていた。
湊先生は人当たりがよく、飄々としていて器用で、よく見ると凛々しく整った顔立ちをして、かといって人目を惹くかというとそうでもなく、それでも気がついたら目で追っているような華があり、それでいてどうしても記憶に引っかからず、ふわふわしていてつかみどころがない。そのような先生が、狭小な人間関係を更に煮詰めたような学校の職員室からあえて距離を取っている、逃げ場を確保しているというのは野枝実にとって先生の人となりを知る貴重な情報であり、また彼のその態度に素朴に憧れた。野枝実はますます湊先生のことが好きになった。
理科室の扉をそっと開けると、大きな窓から西に傾き始めた太陽がのぞいていた。穏やかな西陽は年季の入った無垢材の床を照らし、宙に舞う小さな埃を照らしていた。木製の棚から漏れる薬品の匂いと埃の匂い、そのような匂いの中を抜き足差し足で切り開いていく。野枝実はアイリと手をつなぎながらときどき息も止めつつ、恐る恐る中ほどへと進入していった。
教室前方に一枚の扉がある。この扉の向こうが準備室である。思いがけず扉は開いていて、机に向かって仕事をしている先生の大きな背中がいきなり目に飛び込んできた。その姿を見ただけで野枝実は全身が打ちのめされそうになる。
いたいた! すっかり硬直した野枝実の横で、アイリは満面の笑みで嬉しそうに口を動かす。野枝実は作り笑いすらできなかった。こうしている間にも先生に気づかれてしまうかもしれない。
「湊せんせ、」アイリが壁から顔を半分出して先生を呼ぶ。アイリの背中に隠れるようにしていた野枝実も顔を半分出した。先生はこちらを振り返ると、おお、と気の抜けた声を上げて立ち上がりこちらへ向かって来る。息が止まりそうだった。
「どうした」
「先生、数学教えてください」
「数学なら土井先生がいるだろ」
「土井先生は学校で習ってない範囲のこと聞くのはだめって言うんだもん」
しょうがないな、と先生はあっさり二人を招き入れた。慣れた様子ですいすい部屋へと入っていくアイリの背中を、野枝実は慌てて追いかける。
「これの全部が謎なんです」
塾のテキストを広げて大雑把な質問をするアイリを湊先生は、あのなあ、とたしなめながらもそれを受け取る。
「で、どこがどう謎なの」
「ここの求め方がよくわかんないんです。点Aのy座標が……」
先生は相槌を打ちながらデスクの脇に置かれた裏紙をクリップ留めしたメモ用紙を引き寄せ、クリップから素早く一枚引き抜き、その紙を更に半分に折り畳んで折り目をつけ、折り目の左側にさらさらと図を描き出した。アイリの持つ問題集を時折見やりつつ、二次関数のグラフに素早く座標やアルファベットを書き入れてゆく。
製図する先生の手。たまにアイリを見上げて促す先生の顔。そのとき無造作に上目遣いになる二重の瞳。すらりとまっすぐに通った鼻筋。少しだけ口角の上がった薄い唇。その唇がだんだんと滑らかに、饒舌になってゆく。なんだかんだ乗り気で教えてくれるんだよ、というアイリの言葉を思い出しながら、いつの間にか少し前のめりになっている先生を愛おしく眺める。
異次元のような二人のやりとりを聞きながら、野枝実は先生ばかりを見ていた。
「わかるー! わかったー!」アイリが軽やかな声を上げる。
「それか、点Aと点Cからこう線を伸ばして計算してから、こことここの三角形を引いてもいけるんじゃないかな」
「あー、そっちのほうがわかりやすいかもー」
「じゃあ一応そのやり方でもやってみるか」
机の上は書類が山積しており、その山頂に煙草とライターが無造作に置かれていた。赤い丸のロゴマークの中には何やら英語が書いてあるようだけれどよく見えず、野枝実はつま先立ちになって目を凝らそうとした。
「荒木も?」
えっ。ふと先生の視線が自分に向き、ふいに目が合ってしまった野枝実は身を固くした。完全に油断していた。一通りアイリに説明し終えたらしき先生は、薄い唇の端を少し上げて野枝実を見ていた。
「荒木も何か質問?」
「あ、いえ、私は山口さんについてきただけで、」
「最近野枝実ちゃんと一緒に勉強してるんですよー」
アイリが二人の間からひょこっと顔を出して言う。助け舟を出してくれた。
「そうか、図書室で勉強してるんだっけ」
無邪気に顔を出していたアイリの動きが一瞬止まり、野枝実の反応を伺うような不自然な視線が向けられた。アイリに凝視された野枝実は何も言えず、代わりに胸の前で抱いていたノートに力を込めた。
どうして知っているんだろう。毎日、校庭を横断していたことを気づかれていたのだろうか。手ぶら行くのもなんだからと形だけ持参したノートは、薄くて頼りないクッションのようだった。
「この間、八嶋先生が褒めてたんだよ。最近、山口と荒木が毎日夕方まで図書室で勉強してるんだって」
「あ、そうなんですか。あ、ありがとうございます」
野枝実はやっとのことで声を絞り出した。可もなく不可もない、無難な返しだとひとまず落ち着いた。
担任の八嶋先生に褒められたことを知ったのは嬉しかったものの、その動機が不純そのもの故に野枝実は素直に喜んでいいものか戸惑った。そのことを湊先生から聞くのはもっと複雑だった。
「ていうか先生、今気づいたんだけど、この部屋の景色ってめっちゃ自然豊かじゃないですか? グリーンカーテンみたい!」
元の調子に戻ったアイリに、うんうん、と野枝実もうなずいて窓の外を見やる。今は裸木の枝が寒々しく揺れるばかりだが、裏庭の木々の背丈とちょうど同じ位置に理科準備室の窓があり、春先からは確かに緑豊かになりそうな眺めであった。湊先生も窓辺へ視線を滑らせる。
「自然豊かだよ。これ、全部桜の木だから春は毎年すごくきれいなんだよ」
「すごっ。今年のお花見はここでしようよ、ね、野枝実ちゃん」
花見の前にもう卒業だろ、と苦笑した湊先生は、おもむろに立ち上がって窓に顔を近づけた。
「そうだ、見てごらん。こないだからあそこでスズメが巣作りしてるんだよ」
「ほんとだ、かわいい!」
アイリが椅子に膝をついて先生の隣に並ぶ。いいな、先生の椅子に乗れて。もやもやと羨みながら野枝実もアイリの隣に並ぶ。
赤茶色のかさついた葉たちの奥、太い幹が枝分かれしたところに小さな巣があり、その隣で母鳥が見張りをするようにじっと枝にしがみついていた。超かわいい、とアイリが黄色い声を上げようとしたのを野枝実が制すると、その様子を見て先生が笑った。母鳥に気づかれないよう、三人はしばらく無言のまま巣を見つめていた。
「ねえ野枝実ちゃん、スズメ超かわいいね」
「スズメかなあ……あれ、多分アオジっていう鳥だと思うよ。スズメとよく似てるけど、ほら、よく見るとくちばしがピンク色で顔がちょっと黄色っぽいから、」
そこまで言って野枝実ははっと口をつぐんだ。
しまった。余計なことを言ってしてしまった。いいところを見せようとして、聞かれてもいないことを口走って。会話の流れが止まってしまったことを肌で実感した。
寒さに身を震わせて毛を逆立てた母アオジ。そこから恐る恐る視線を移すと、大きな目を見開いたアイリの隣で同じような顔をして野枝実を見る湊先生の顔があり、やってしまった、と野枝実は絶望した。
知らなかった、と興奮気味に口を開いたのは湊先生のほうだった。
「すごいな荒木、よく知ってるな!」
今まで聞いたことのない、少年のような弾んだ声だった。清らかな春の突風が野枝実の胸に吹き込まれる。
野枝実は照れ笑いをしながら、風など吹いていないのに前髪を整える。窓の向こうの母アオジが、小さな体をもう一度ぶるっと震わせた。
理科室を出るなりアイリは野枝実に抱きついた。抱きつかれたときにふわっとシャンプーの甘い匂いがした。見ると彼女はくしゃくしゃの笑顔で、白い歯には歯列矯正の金具が規則正しく並んで光っている。その屈託のなさがにわかに可愛らしく、野枝実もつられて笑った。体をくっつけあうと秘密を共有している実感がことさらに湧いてわくわくした。
友達と一緒に秘密を持っているのは、こんなに楽しいことなんだ。清々しい発見の中で野枝実は幸せだった。
野枝実もぎこちない動きでアイリを抱き返し、二人でよろけ、また笑った。制服越しでもアイリの体のやわらかさが伝わり、それは湊先生とはまた違ったやわらかさだった。男の人のやわらかさと女の人のやわらかさは違う。大人と子どもでもやわらかさの種類が変わるのだろうか。自分も、誰かが抱きしめたらこんな風にやわらかい体なのだろうか。
大はしゃぎしながら階段を降りてきた二人を見て、通りかかった見知らぬ先生が「なんだなんだ」と苦笑した。
「なんでもないでーす」二人同時に声を上げ、また笑った。
その日は二人でじゃれ合いながら帰った。私立高校の入試はあらかた終わり、二月下旬の都立高校の入試が迫っていた。
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