1-10. 大人の関係
理科準備室での一件から数日経ったある日、図書室から出がけにアイリは言った。
「私、明日は第一志望の試験なんだ」
「いよいよかあ、緊張するね」
野枝実がタータンチェック柄のマフラーを首に巻きつけながら相槌を打つと、アイリは全然、と吐き捨てて早口にまくし立てた。
「全然。第一志望っていっても親の第一志望だもん。女子高に行けって言うんだけどさ、校則厳しいし制服も可愛くないし、全然行きたくないんだよね」
「ほんとの第一志望は別にあるってこと?」
「うん、そんな感じなんだけど……ねえ、これ誰にも言わない?」
「言わない言わない」
「湊先生にも言わない?」
「言わない。ていうかそんな話できないよ」
「だよねー。こないだだって野枝実ちゃん超テンパってたもんね。あっ、は、はい、ありがとうございます、って」
アイリが先日の湊先生と野枝実のやりとりを再現する。うつむきがちでしどろもどろで、思った以上に特徴をとらえていて顔がかっと熱くなった。野枝実は持っていた体育着バッグでアイリの頭を叩いた。ぽすっ、と間が抜けた音がする。
「いったーい! 野枝実ちゃん、意外に凶暴! かわいい顔してこわーい!」
「だって似てたんだもん!」
大きな声を出すと胸がすっとして気持ちいい。いつも聞き役に回ることの多かった野枝実にとって、友達に対してこんなに大きな声を出したりするのも、じゃれかかったりするのも初めてのことだった。
散々大笑いした二人は、その後の道中で笑い疲れた息を整えた。ようやく落ち着いたかと思うとアイリがじゃれついてくるのがくすぐったく、結局ずっと笑いっぱなしになってしまう。二人は狭い歩道をもつれ合うようにふらふらと歩いた。
たくさんの車が行き交う大通りの交差点に差し掛かり、赤信号で立ち止まったときにアイリは本当の志望校を教えてくれた。本命の試験は既に終わっており先日合格を確認したこと、親の第一志望のために勉強しているふりをしていること。そんなことを野枝実に話した。
話している間アイリはずっと笑顔を絶やさなかったが、唇の端がひきつり、口元からは歯列矯正の金具が時折見え隠れして、なんだかぎこちなく人工的な表情に見えた。こういった話のときにはどんな顔をしたらいいのかわからないというような顔だった。公務員のお父さんと専業主婦のお母さん、とても仲がいいと聞いていた家族の中で、彼女なりに無理しているのかもしれない。
「このこと、ほんとに誰にも言わないでね。親にばれたらめんどくさいもん」
「言わないってば。そうだ、お互い入試が終わったら一緒にお祝いしようよ」
アイリはぱっと笑顔になり「するー!」と声を上げて野枝実に抱きついた。
「カラオケ行きたいし、野枝実ちゃんとまだプリ撮ったことないから撮りたいし、一緒に服も見に行きたいし、おそろで何か買いたいし、それから……」
指を折って次々に希望を列挙していたアイリは、ふと思い出したように意地悪な顔をして、上目遣いに野枝実を見て笑った。
「誰にも言わないって、湊先生にも内緒だよ」
「だからー!」
照れ隠しに思わず声が大きくなってしまう。目の前の交差点の信号が青になり、また赤になった。
「ほんとは今日も塾で自習してることになってるんだけど、みんなピリピリしてて嫌だから学校にいるんだ。図書室だったら野枝実ちゃんもいるし、気分転換になるかなと思って」
「だから最近図書室によく来るようになったんだ」
「そうそう。親が教育熱心だとやんなっちゃいますよ」
信号は青になり、また赤になる。すっかり日が暮れた空が赤色をより際立たせている。
「でもさー、野枝実ちゃんは受験が終わったら気持ち伝えなきゃだね」
「えっ、気持ち?」
「湊先生にだよ。卒業といったら告白でしょ」
告白。そんなことは考えたこともなかった。大島くんのときもそうだったが、野枝実は誰かを好きになったときには基本的に見ていることしかできない。今もそうだ。だからこそ準備室冒険計画は野枝実にとって大きなできごとだったし、それが実現したことですでに何かを完遂したような気持ちになっていた。
「できないよ、告白なんて今までしたことないもん」
「したことないからやるんだよ」アイリはきっぱりと言う。
「野枝実ちゃんが積極的なタイプじゃないのはしょうがないけど、見てるだけだったらいつの間にか別の人にとられちゃうかもよ。でもまあ、湊先生の場合はとられるってことは……ないか」
とられると言うには大きすぎる先生の体格を思い浮かべたのか、言いながらアイリは吹き出し、野枝実もつられて笑った。アイリが続ける。
「湊先生は恋愛対象っていうよりお父さんみたいだね。先生でとられる心配があるっていったら、けんちゃん先生ぐらいだよね」
けんちゃん先生こと数学科の河北賢志郎先生は、男子からはカワケン、女子からはけんちゃん先生と呼ばれている。大阪出身のけんちゃん先生は新任の若い先生で、学校中の女子生徒から圧倒的な人気を集めていた。爽やかな顔立ちに若々しい振る舞い、そしてたまに見せる無防備な笑顔はまさに今時のお兄さんという感じであり、最近人気の若手俳優の誰々に似ていると言う生徒までいた。時折出る関西弁も新鮮で、平均年齢が高めな先生たちの中で群を抜いて目立った存在であった。
しかし野枝実はその嬌声に加わることはしなかった。できなかった。若さあふれる彼のまなざしにどこか生徒を選り好みしているようなよこしまさを感じてしまい、彼に心を開いた途端に無下にされるような切り捨てられるような、そんな危うい印象を抱いていた。と同時に、完全な傍観者としてそのような邪推をする自分がみじめだった。
人から自分が真面目に見えるかどうかを明確に意識し始めたのはそのころからのように思う。引っ込み思案で、慣れない愛想をふりまいてみても空回りするだけの自分が認められるのは、愚直で真面目であることだけだと野枝実は考えていた。
「でも、けんちゃん先生は独身だけど、み、湊先生は結婚してるからさ」
「そんなの関係ないよ。付き合ってくださいって言うわけじゃないんだから。気持ちを伝えるのは自由なんだよ。もうすぐ卒業なんだよ、伝えなかったらずっと後悔するかもよ」
どこかから引っ張ってきたようなアイリの言葉には妙な説得力があり、野枝実はそれを反芻しながらゆっくりとうなずいた。
「気合い入ってるね、野枝実ちゃん」
アイリには力強くうなずいたように見えたようだった。
「ねえねえ告白してさ、もし先生に抱きしめられたりしちゃったりしたらどうする⁉」
「えっ」
アイリの唐突な一言であの日のできごとがフラッシュバックする。先生の胸、手、体温。寒さで冷えきった体が、ぼっと火がついたように熱を帯びた。
アイリが追いうちをかけるようにわざと声を低くして湊先生の真似をしてみせる。
「ありがとう、荒木……とか言ったりして!」
「えーっ」
「それでそのままチューされちゃったりして!」
フラッシュバックした映像にアイリの声が重なった。あの日、駐車場で泣きやんだ野枝実に先生の顔が近づく。という妄想が頭の中で一瞬にして繰り広げられる。
しかし近づいた後どうなるのかについては、その先の経験がない野枝実にとって未知の領域であった。その未知に宇宙のような果てしなさを感じ、野枝実はめまいがして軽くふらついた。
「付き合ってないのにそんなことするなんて完全にオトナの関係だよね」
次から次へと繰り出される刺激的な話題に、大人の関係という言葉の淫靡な響きに、野枝実は打ちのめされそうだった。それを言う当のアイリからは、大人の関係という言葉から漂う使い古された生臭さがまったく感じられず、くらくらしている野枝実の隣でけろっとしていた。
大人の関係。静かに反芻してから二人で悲鳴を上げて飛び跳ねた。交差点の反対側にいる通行人が驚いてこちらを見ているのがわかった。
「でもさ野枝実ちゃん、可能性はゼロじゃないよ。うわー、先生とチューとかやばーっ。大人だから、経験ほーふだから絶対うまいよ」
「うまいって何が?」
「わかんないの? 純情だなあ野枝実ちゃんは。ほら、あれだよ、チューのテクニックのことだよ!」
うわあっ。野枝実は錯乱したようになり口元を手で覆って小さく叫んだ。唇を合わせるという行為の何が上手くて何が下手なのかよくわからなかったが、その妄想だけで大興奮だった。
「うわあーっ」
アイリも野枝実の真似をして覆いかぶさるようにじゃれつき、二人で交差点の前でもつれ合いふらふらした。よろけた拍子に信号の横の植え込みに勢いよく体がぶつかってまた笑った。
二人で興奮して大笑いした。途中からどうしてこんなに笑っているのかわからなくなり、それがおかしくてまた笑った。
息を吸うたびに喉の奥が冷たい風に当てられてひゅうひゅうした。喉の奥に細かな水の粒子がはりついたような気配があり、すなわちそれは雨の気配だった。何度目かの青信号でようやくアイリと別れたころに弱い霧雨が降り始め、帰宅してからは本降りになった。
思いきり息を吸い込むと鼻の奥がつんとするような寒さだった。野枝実はその、つん、が心地よく、家に着くまでに何度も深呼吸をしてその感覚を味わった。
まだきっと校内にいるであろう先生は、この空気にいつ触れるのだろう。ふと顔を上げて窓を開けたときだろうか。もっとあたりが暗くなったころ、校舎を出てあの裏庭を抜けていくときだろうか。そんなことを考えて体が内側からぽかぽかするのが今は嬉しい。冬は昔から好きな季節だけれど、こんな風に季節そのものに心が弾むのは初めてだった。
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