1-11. 告白

 それから、野枝実はとりわけ冬の匂いが好きになった。

 季節にはそれぞれ匂いがあると知った。夏はコンクリートが溶ける匂い。春にあらわれた植物が育ち、生を振りまき、腐ってゆく匂い。どこまでもまとわりつく熱風と太陽。あらゆるものが蒸発する雨上がりの午後。

 秋から冬にかけては、意思あるものが停止してゆく。生命が眠りにつき、澄みきった空気に白い息で色をつけてゆく。新雪を裸足で踏みしめるような音。踏みしめたとき、体の内側から湧き上がるような透明の匂い。その後つんと鼻に、目の奥に抜ける鋭い冷たさ。


 卒業式といえば告白、告白といえば卒業式だよ。アイリはその後もことあるごとに野枝実に強く念を押した。その理由については吊り橋効果がどうのなどと言っていたが、そのあたりはよく理解できなかった。

 とにかくアイリのアドバイスを肝に命じ、野枝実は卒業式の前日にそれを実行することにした。卒業式当日を避けたのは、イレギュラーな一日になるだろうからタイミングを逃すかもしれないことと、もし前日に声をかけられなかった場合に卒業式当日に再度挑戦できるようにという、自分自身への保険であった。


 その日は卒業式の予行演習をして昼前には解散となり、すぐに教室は閑散とした。ともちゃんと話し込んでいるうちにいつの間にか湊先生は教室を出てしまったようで、帰りがけにD組を覗くともはや先生も誰もいない。残響のような人気のみが漂う教室はがらんとしていて、野枝実の密かな意気込みも腑抜けて空洞のようになってしまった。


「のんちゃん、帰らないの?」

 未練がましく教室の前で立ち止まる野枝実にともちゃんが声をかけた。

「うん、帰るけど……」ぼそぼそと言ってから野枝実は、

「あ、えっと、そうだ、私やること思い出した! ともちゃん先に帰ってていいよ私しばらく学校残らなきゃいけないんだ」

 咄嗟に思いついたことを一気にまくしたて、その後すぐに激しく後悔した。野枝実の剣幕に驚いたのか、ともちゃんは案の定ぎょっとしたような顔で野枝実を見つめていたからだった。


「えっ何、のんちゃん、どうしたの?」

「えーっと、その、部活、そう、部活で返さないといけないものがあって。美術室に寄っていかないと」

「そうなんだ……」

 少しの間があってからともちゃんは、「あっ、明日のクラスの集まりのこと後でメールするね」などと早口に言って、固い表情のままそそくさと野枝実の元を去っていった。


 ともちゃんの何とも言えないよそよそしい態度に、自分の嘘が招いた結果とはいえ野枝実は何とも言えず傷ついた。そして、肝心の湊先生が教室を去ってしまっている以上、ここにいても何もできることはない。


 一人きりになった教室で先ほどの見苦しい言い訳を思い返し、それを聞いて引くように去っていったともちゃんの後ろ姿を思い返し、野枝実は再び猛烈に後悔した。猛烈に後悔してくよくよしながら、窓からぼんやりと外を見たり教室をうろうろしたり、誰もいない渡り廊下を行き来したりした。


 初夏のような日差しが教室の窓から、廊下から、野枝実を追いかけるように差し込んでいた。ブレザーの内側に熱気が溜まり始めたのがわかる。こんなわけのわからないことをしている自分を責められているようだった。階段を誰かが通る足音がしたり、何か気配を感じると、廊下の掲示物を見つめたり帰る支度をしているふりをしながら、そのたびに自分は何をやっているんだろうと虚しい思いがした。


 本当に何をしているんだろう。校舎の真上にある太陽が、校庭や、教室をじりじりと焼き、前髪で隠れた額にもうっすらと汗をかき始めたのを感じる。


 何度目かの気配をやり過ごしたとき、階段をゆっくりと上ってくる足音が聞こえた。これまでどうにか遠のいた気配とは違い、足音はこちらに向かってどんどん近づいてくるのがわかり、野枝実は身を固くした。身を固くしながら、今度はどうやってやり過ごそうかと必死で考えた。掲示物を見物するふりをするのもさすがに苦しい。野枝実は逃げるように教室へ移動した。

 足音は次第に大きくなる。どっしりと重量のあるその音は生徒のものではなさそうだった。もしかして、と野枝実の体はさらに強張る。


「お、まだいたのか」

 足音の主は果たして湊先生であった。扉の前で野枝実を一瞥した先生は、もう帰るぞ、と立ち止まらずに言い、教室の前を通り過ぎて行った。D組の教室に戻っていくようだ。

 今しかない。野枝実の体は勝手に扉のほうへ動き、先生を呼んだ。


「あの、先生」

 先生が振り返った。もう後戻りできない。

「ちょっと、お話、が」

 声が震えていた。扉から半身を出して動かない野枝実のもとへ先生が近づく。


 目の前まで来たところで先生が、お話、と野枝実の言葉を繰り返した。先生と向かい合うのはあの日以来初めてだということに気づき、野枝実は途端に萎縮して、

「はい……すみません」

「いいよ、座ろうか」

 先生は教室に入り、扉から一番近い席の椅子を引き野枝実を座らせた。野枝実は促されるままそこへ横向きに腰掛ける。先生はその後ろの席の椅子を引き、同じく横向きに腰かけた。机を挟んで二人は並び合う形になった。


「お時間、大丈夫ですか?」

「大丈夫だよ。教室に忘れ物取りに来ただけだから」

 野枝実は大きく息を吸い込んだ。むんむんの空気でいっぱいになった胸が大きく脈打っている。

「お話というのは、あの……」

「うん」

「すいません、やっぱりちょっと待ってください」

 緊張のあまり頭が真っ白になり、動悸が激しくなって貧血のようにあたりが心もとなく白んでいくのを感じる。明らかに動揺する野枝実を見かねた先生が言葉を継いだ。


「そういえば、この間はバレンタインのチョコありがとう。うまかったよ」

「お、お口に合ってよかったです」

「どれもおいしかった。中にジャムが入ってたクッキーって、あれ自分で作ったの?」

「あれは……買ったものです。手作りだけだと失敗したとき悲惨だからと思って」

 先生は「悲惨ってそんな」と笑い、

「でも言いたいことはわかるよ、保険ってやつだな」

 野枝実はぐるぐる混乱する頭脳の中を気取られないように、ただ曖昧に笑うことしかできなかった。


「クッキーじゃないほうの、トリュフチョコは?」

「あれは、一応手作りです」

「それもうまかった」

「あ、ありがとうございます」

「こちらこそ、おいしいチョコをありがとうございました」

 先生は居住まいを正して仰々しく頭を下げてみせると、お礼が遅れてごめんね、と付け加えた。野枝実の胸中を推し量って、つまり野枝実がこれから言おうとしていることを理解してそのように振る舞ってくれているのだと思うと、玉砕が前提である告白の前からすでに自分がみじめであった。


 校庭の砂場を蹴り上げる乾いた足音や、歓声のような部活の声出しが遠くに聞こえる。野枝実は渇いた口を開いた。


「お話というのは、あの……」

「うん」

「えっと、以前、車で送っていただいたときはありがとうございました」

 なんだそれ。そんなことを言いたいわけじゃないんだ。野枝実はうつむき、絶望しながら消え入るようなため息を漏らした。

「どういたしまして」

 先生は表情を変えずに言い、もう半年くらい前か、と独り言のように付け加えた。

 ふと階段を上がってくる足音が聞こえ、野枝実は次に言おうとした言葉を飲み込んだ。じっと黙って耳を澄ませていると、その気配は次第に遠ざかってゆく。三年生のフロアを通り越して上階へ向かったようだった。


 先生は何も言わずに野枝実の言葉を待っている。

「あの、何を言うかもうだいたいおわかりかと思いますけど……」

「うん、」


 先生のことが好きです。野枝実はそう言うとすぐに目を固く閉じた。先生の顔を見るのが怖い。背後の窓からは真昼の陽光が差し込み、背中がじりじりと暑かった。


「変なこと言ってごめんなさい。ご迷惑ですよね。明日で卒業するので忘れて下さい」

 野枝実は薄目を開けて早口に言いきった。先生がどんな顔をしているのかわからないが、机に片肘を乗せ、野枝実の声に耳を傾ける先生の大きな体が変わらずそこにあることだけはわかった。


 野枝実の告白を聞いてもなお、そのシルエットはまったく動かなかった。どれくらい沈黙していたのか、あるいはまったくしなかったのか、先生が口を開いた。

「ありがとう」

 昼下がりの日差しのように優しく穏やかな口調だった。それを聞いて野枝実は恐る恐る顔を上げた。

「ありがとう、嬉しいよ」


 先生の手が伸びてくる。息が止まりそうだった。先生は丸く縮こまった野枝実の背中を、労うようにぽんと一度だけ叩いた。

 うつむきながら膝に置いていた両手にぐっと力がこもり、吐く息が震えた。

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