1-3. 帰り道、男[1]

「遅くなってごめんね。三年も強制で片付けやらないといけなくて。だるかったー」


 放課後、野枝実の前に現れたともちゃんはジャージ姿であった。

 校庭の体育倉庫の片付けを手伝わなければいけないというともちゃんを待って、野枝実は校内でしばらく時間を潰していた。彼女と合流したときにはすでに日が傾き始めていて西陽が眩しく、太陽はちょうど二人の帰り道に立ちはだかるような低い位置にあった。


「大丈夫。私も久しぶりに部活行ってきたよ」

「何か作品作ってたの?」

「ううん、最近はもう全然作ってない。美術部に混じってわいわいしてただけ」

「ビークラってのんちゃんと理央ちゃんしかいないもんね。でも後輩がいないってうらやましいなあ。陸部は今日も一年がサボってばっかりでさあ」

 私は後輩がいるほうがうらやましいよ、と野枝実は口をとがらせる。


 ビークラというのは野枝実が所属しているビーズクラフト部のことであり、野枝実ともう一人、同級生の理央と二人だけの小さな部活である。野枝実の入学と同時に設立されて、一人も部員が増えないまま野枝実たちの卒業と同時に恐らく廃部になる。


 総勢二人きりのビーズクラフト部の活動場所は、美術室の長机のうちの一つである。毎週月曜日と木曜日の週二回、美術部と同じ日に同じ場所で活動するうちに、いつの間にか美術部のほうに吸収合併されるような形になった。野枝実たちは隅のほうで黙々と作業に取り組みながら、何かとにぎやかでリアクションの大きい美術部の仲間たちを横目で眺めつつ、たまにその輪の中に入れてもらう。ビーズクラフト部の最近の活動はもっぱらそんな感じであった。

 ほぼ漫研と化している美術部は現在、中学生活最後の同人誌制作に取り組んでいる、ようだった。野枝実はいわゆる二次元の話にはまったく疎いので、刺激的なその話に曖昧な照れ笑いを浮かべることしかできないけれど。


 とにかく先輩がいたら楽しそうだな、と野枝実は思う。先輩、後輩、その潔い関係性は素朴な憧れであった。

 あ、そうだ。そんなことを考えてぼんやりしていた野枝実は我に返った。

「そうだ、ねえ、今日の理科のレポート。あれやめてよー、先生に見つかって恥ずかしかったよ」

「ふふふ、だってのんちゃん全然気がつかなかったんだもん。提出する前に消そうと思ってたのに、まったく気づかないでそのまま出しちゃうんだもん」


 実験では玉ねぎの細胞のスケッチをした。ぼこぼこした小さな細胞部屋のところどころにあかりが灯ったような丸い核の絵を描いたところで、ともちゃんは部屋のあかりを目に見立て、その下にさりげなく口を描き足していびつな顔に仕上げていた。


「だってまさか落書きされてるなんて思わないし……」

 言っているうちに何ともいえない間抜けな細胞の顔が思い出され、野枝実はなんだか笑ってしまった。それを見たともちゃんの表情も緩む。


「でも怒られなかったでしょ。湊先生、見た目は怖いけどああいうノリには結構乗ってくれるんだよ」

 どうしてそんなことがわかるんだろう。湊先生と対峙したとき、何を考えているのか、何を言われるのかまったくわからなくてすごく怖かったというのに。野枝実がともちゃんに対して畏怖に近い気持ちを抱く一方で、彼女は仕切り直すように話題を変えた。


「ねえねえ今日さ、土井先生がエグザイルのことイグジールって言ってて笑っちゃったんだけど」

「言ってたねー、私も笑っちゃった」

「なんか土井先生ってさ、天然とちょっと違うよね。天然通り越して……堂々ととぼけてるみたいな」

「確かに!」


 他愛ない話のほうがずっと楽しく、先ほどの落書きの話はどうでもよくなってしまう。授業中の些細なこと、誰かが言っていた面白いこと、先生のちょっとした仕草、ともちゃんとはそんな話をしているときが一番楽しい。彼女と同じクラスになってからは共有できる話題が増えて嬉しく、週に何度か一緒に帰りながらそのような話をすることを野枝実は密かな楽しみにしていた。


 ともちゃんはクラスでは野枝実同様目立つ存在ではないけれど、近くで見るとしみじみと綺麗な顔だと思う。二重で切れ長の目は吸い込まれるような大人っぽさがあり、ふっくらした口元には、口紅のCMを連想させるような色っぽさがあった。こげ茶色の短い髪は美容師のお父さんが切ってくれるのだという。野枝実より小柄ではあるがスタイルがよく、きゅっと引き締まった脚は特に美しい。ともちゃん本人にその自覚がないところがまた彼女の持つ健康的な色気のようなものを際立たせていて、そのあまりの健全さに野枝実は自分が相対的に不健全な存在だと感じることがある。


 健康的な色気。運動部の女子の持つ無自覚な色気というものが、野枝実はにわかに眩しかった。

 一方の野枝実は、自分の容姿にははっきり言って自信がない。もともとがこの内向的な性格である、周りの女子たちと比べるとどうしても自分の劣っているところばかりが気になってしまう。


 小学生の頃から成長が早かった野枝実は、幼い体型の同級生たちを追い抜いて真っ先に女性らしい体になっていったが、当時はそれを太り始めたと勘違いして長い間気にしていた。背の順はいつも一番後ろで、頭一つ飛び出てしまうのが嫌で、いつも猫背だった。当時いち早く初潮を迎えた野枝実はしばらく母親にも言い出せなかった。

 とはいえ野枝実は、くっきりとした二重の目は丸く大きく、少し丸みのある鼻は横から見るとすっきりと鼻筋が通って、ふと微笑んだり、歯を見せて笑ったりすると、丸顔の輪郭が膨らんで色白の頬にえくぼができ、見た人の顔が思わず顔がほころぶような愛嬌がある。野枝実こそ自分が持つそのような愛嬌にはまったく無自覚で、とりあえず顔立ちは性格そのものほど暗くはないようだ、というほどの自意識しかなかった。


「森田さーん、ちょっと来てー」

 門の前でしばらく立ち話をし、ようやく歩き始めたところで校庭からともちゃんを呼ぶ声がした。二人して振り返ると陸上部の菅原先生が大きく手招きしている。

 はーい、と大きく返事をしたともちゃんは困った顔を野枝実に向けて、

「どうしよう、もうちょっと時間かかっちゃうかも」

「いいよ、待ってる待ってる」

「ごめーん! なるべく早く戻るようにするから」

 顔の前で両手を合わせ、校庭に向かって軽快に走っていく。途中で一度振り返って野枝実に手を振った。


 野枝実が昇降口のところで待っていると、ともちゃんは時々こちらを振り返って様子を伺い、そのたびに手を合わせてごめんねのポーズをした。

 彼女から見える場所にいると気を遣わせてしまうかもしれない。野枝実は次に彼女がこちらを見たタイミングで門のほうを指さし、門の外で待ってるね、と身振りで伝えた。ともちゃんが顔の上で丸を作る。


 野枝実は校門を出てすぐそばの塀に寄りかかった。身を隠すようにしたのはともちゃんに対する自分なりの気遣いもあったが、もう一つは陸上部の大島航平くんを見たくなかったからだった。大島くんとは二年生のとき同じクラスで、野枝実はつい最近まで彼に片思いしていた。


 大島くんは長距離の選手だった。物腰やわらかな普段の振る舞いと、走っているときに見せる真剣な表情とのギャップが好きだった。ずっと同じ姿勢を崩すことなく、苦しそうな顔を見せずに淡々と走り続ける姿が好きだった。だんだん息が上がって口で荒く呼吸をするところや、すらりとした手足に筋肉が浮き出るのを見ると、片思いのドキドキとはまた違う熱がこみ上げるのを感じた。


 大島くんが好きだということをともちゃんに打ち明けるのは怖かった。友達なのにどうして怖いのかと考えたとき、彼女の健康的な色気が立ちはだかっていることに気づいた。彼女の健全さに、ふとした瞬間に悪気なく傷つけられるような気がしたのだ。そしてそんなことを思ってくよくよする自分はやはり不健全だと思い、そんなことを気にしている時点で根幹の部分から彼女に勝てるわけがないと思った。


 友達相手に勝ち負けなどということを意識するのは、なんとなく大島くんはともちゃんのことが好きなような気がしたからだ。

 大島くんがともちゃんに気があるようなことに気づいてから、野枝実は無理やり大島くんのことを忘れた。得体の知れないもやもやを彼女に対して抱くのが嫌だった。どこかでともちゃんを押しのけようと思っていることを自覚するのも嫌だった。野枝実は大島くんのことが好きだという気持ちも含めて自分の気持ちすべてを心の一番奥に無理やりしまいこんだ。


 葛藤があったというより、単に自分には見込みがないことを受け入れる勇気がなかったのだ。どろどろした自身の心の澱のようなものを直視するのが怖い。だから最初からなかったことにする、そのために心にしまい込む。それが十五年間の人生で野枝実が体得した唯一の自己防衛の方法であった。


 とはいえ、やはり大島くんが近くにいると反射的に目で追ってしまう、そんな自分が情けない。下校時刻を過ぎて人気もまばらになった校門を背にして、野枝実は外壁に寄りかかってうつむいた。


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