1-2. 2007年10月15日

 二〇〇七年十月十五日。その日は二学期の中間テスト週間が終わり、開放的に遊んだ土日の後にやってきた月曜日だった。


「のんちゃん見て見て。昨日買ったストラップ、筆箱につけたよ」

「かわいいー。筆箱も猫の模様だからぴったりだね」


 授業後の中休み、教科書を片付けていた野枝実のもとにともちゃんがペンケースを持ってやってきた。麻でできた細長いペンケースは猫のシルエットのイラストがポイントになっている。ファスナーには昨日一緒に買った猫のストラップがぶら下がり、ペンケースの猫の友達のように揺れていた。


 同じ小学校出身であるともちゃんと三年生でついに同じクラスになれたことは、内気な野枝実にとってまたとない僥倖であった。ご近所同士のともちゃんとはよく一緒に遊びに行く。昨日は電車に乗って渋谷へ行き、ビレッジバンガードでお揃いのストラップを買い、プリクラを撮ってカラオケに行くという、休日のフルコースのような一日を過ごしたのだった。


「のんちゃんはどこにつけた?」

「私は体育着のバッグにつけたよ」

「携帯でもよさそうじゃない?」

「うん、それも迷ったんだけど携帯はビーズのストラップだけにしようと思って」

 言いながら鞄から携帯を出しかけて、慌てて手を引っ込めた。ともちゃんはそれを大袈裟に見咎めた素振りをしながら「荒木さん、校内で携帯は禁止ですよっ」と野枝実を叱りつけ、野枝実は肩をすぼめて笑う。


「ところでのんちゃん、次は理科のテスト返ってくるね、こないだやった実験レポートも一緒に返ってくるかな」

 上目遣いに野枝実を見て何かを企むようにともちゃんが笑う。え、なになにその表情。野枝実が尋ねようとしたとき、ちょうどチャイムが鳴って彼女は席を離れてしまった。

「あっ、今日一緒に帰ろーね!」

 去り際にともちゃんは野枝実のほうに手を伸ばし、離れがたいようなポーズをして声を上げた。すぐに言葉が出ないかわりに野枝実は大きくうなずく。


 湊先生が答案を持って入ってきた。出席番号が一番の野枝実はこれを最初に受け取る。

 ともちゃんの予想通り、中間テストの答案と一緒に前回の実験レポートが返却されるということを知らされた。テスト直前の授業のとき、試験範囲が終わって時間が余ったからということで授業では省略した実験を一つ行ったのだった。

「あらきーのえみー」

 教壇から先生の声がする。荒木野枝実、とテスト返却の度にフルネームで呼ばれるのは恥ずかしい。新木流星というもう一人のアラキがクラスにいるので区別するために仕方ないにしても、先生に下の名前を呼ばれるたびにくすぐったいような気持ちが起こる。


 ほい、と先生から手渡された答案の右上には走り書きで「80」とあり、自分にしては上々な結果に野枝実はひとまず安堵した。

 続いて先生がレポートを渡そうとする手つきがほんの少しスローになり、わずかに眉を上げて、ん、という顔をする。予想外の動作一つにも野枝実はどきりとしてしまう。なんだろう、何か変なことでも書いてたのかな。

「これ、今気づいた」

 小声で言う湊先生の声。レポートが差し出され、野枝実は食い入るように顔を近づける。先生がボールペンの頭でとんとんと叩いた先にあったのは、いびつなスケッチの細胞と、その細胞の一部に小さく目と口が書き加えられた落書きだった。


 あっ。発声しようとした口からはただ息が漏れ、野枝実はただぽかんと口を開けて固まった。

「えっと、これは多分、ともちゃん、いえ、森田さんが」

 森田智花ともかが描いた落書きです。私じゃありません。野枝実はそう言い訳をしたかったが、赤面しながらただもごもごと言い淀むばかりになる。


 さっきの意味深はこれのことか、と思った。ともちゃんはこういう誰も傷つかないようないたずらを野枝実によく仕組んでくる。実験で同じ班だったとき、きっと野枝実が目を離した隙に素早く顔を描き入れたのだろう。彼女は人生における力の抜きどころをわかっているというか、天性の要領のよさがあり、そのような立ち回りを目にするたびに野枝実は彼女には一生かかっても敵わない何かを感じて途方もなくなる。


 それより言葉が途切れてしまったこの場をどうしよう。湊先生は野枝実の言葉を待っているようだったが、程なくして言葉を継いだ。

「ずいぶんかわいい細胞が見えたんだな」

 答案と同じように、ほい、とレポートを手渡されたときに野枝実はようやく我に返った。ひとまず怒っているようではない先生に安心したものの、どう反応していいかわからず、ただ曖昧に笑って逃げるように自席に戻ることしかできない。頬に手を当ててみると案の定焼けるように熱くなっていた。


 答案を教壇まで取りに行く、このわずかな時間さえ野枝実には大きな負担である。誰も自分になど注目していないとわかっていても、教室に並ぶたくさんの顔を目にした途端に頭が真っ白になる。無言でただ答案を受け取って早足に自席に戻る予定だったのに、落書きという思わぬアクシデントがあり湊先生と言葉を交わすことになってしまった。まだ心臓がばくばく音を立てている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る