まぼろしの人

各務

第一章

1-1. 帰り道、雨上がり

 外に出ると雨の匂いがした。肌寒さの中に、湿った土の気配を感じた。気づかない間に雨が降ったようだった。

 見上げるとすでに雨はやんでいた。あたりには何らの音もなく、濃紺色の空は雲一つなく澄み渡り、遠くに星が一つだけまたたいているのが見える。雨はいつの間に降っていつの間にやんだのだろう。

 この数日ですっかり日が落ちるのが早くなって、五時にはもうこんなに真っ暗になっている。同じ時間でも週の始めは、空の奥にまだ夕暮れの気配が残っていたのに。あたたかい校内から出てきたばかりの野枝実のえみは途端に心もとなくなる。


 野枝実の通う中学校の昇降口は二箇所に分かれている。三年生と一、二年生で分かれた二つの昇降口の間には距離があり、三年生の下駄箱で靴を履き替え一人で外に出てきた野枝実は、この寒さにかかわらずなんだか心もとない。下級生のほうはちょうど部活終わりの時間で、体育着やユニフォームを着た生徒たちが遠くに見えるけれど、三年生は今まさに高校受験の直前期で、この時間まで学校に残っている生徒はほとんどいないからだ。


 昇降口の蛍光灯が校門の門扉のほうまでぼんやりと漏れ出て、そこに初冬の風が吹き過ぎてゆく。門の前に立つ野枝実は寒さに身を強張らせる。冷えた指先をこすり合わせ、もう完全に冬が訪れたことがわかった。


 先週、三年生の学習範囲が一通り終わって時間割は短縮になった。午後の授業はなくなり、午前中の授業中もプリントを使った演習授業か自習になった。給食を食べて曖昧にクラスが解散した後、クラスメイトたちが塾や自宅で受験勉強に励む中、野枝実は、学校で勉強する派の数少ない生徒であった。


 午後一時半、野枝実は教室を出ると図書室へ向かう。図書室の中央にある閲覧用の大きな机、その一番端の席が野枝実の定位置であり、そこで完全下校時刻である五時までの時間を過ごす。午前中の授業で配られた演習プリントの復習をしたり、持参した問題集や参考書を開いたり、今日はいよいよ第一志望の都立高校の過去問にも手をつけ始めた。


 北向きにはめこまれた図書室の窓越しの景色はいつも薄曇りのように淀んで、常に陰気な図書室の評判は常にすこぶる悪い。しかしそのおかげで野枝実は図書室の大机をいつも一人占めして使えているので、そのような悪評はむしろ好都合である。分厚い一枚板でできたその表面は木の肌そのもののようにぼこぼこだし、背もたれのない角椅子はがたがたと不安定だけれど、何かと誘惑の多い自宅よりもずっと居心地がいいと野枝実は感じていた。


 それに、図書室で勉強をするのにはもう一つ理由がある。凍える手を握りしめたまま、野枝実は校庭のほうを見た。三年生の昇降口から校庭ははるか遠く、そこにいる人たちは小さな黒い人影にしか見えない。

 雨が降ったからか校庭の人影はまばらだった。でも、今日こそはいるような気がする。この時間にちょうど部活が終わるし、今日は確か校庭での練習日だったはずだ。


 アルファベットのLの字の形をした校舎は校庭をぐるりと囲むようにそびえ立つ。Lの字の長辺のほうに一、二年生の、短辺のほうに三年生の教室があり、両辺が直角に交わるところに学年を繋ぐ大きな渡り廊下がある。

 長辺と短辺の先端にはそれぞれ昇降口と校門がある。野枝実はすぐそばにある門には背を向けて、下級生たちがたむろする反対側の門へ歩き出した。遠回りだが、そうすれば校庭を横切りながらその人影を探すことができるからだ。


 校庭の奥で強いあかりが灯った。背の高い投光器は湿った校庭を一面オレンジ色に照らし、その眩しさに目を細めるたびに野枝実は行ったこともない灼熱の砂漠を想像する。巨大な光源に照らし出された人影は少し人間らしい立体感を帯びてくる。

 野枝実は黒い人影たちの中に一つの人影を探した。その人を探すとき、机に広げたジグソーパズルからぴったりはまるたった一つのピースを探しているような気持ちが起こる。


 今日はいないな。野枝実は光のほうを見やるとすぐに確信した。途端に加速していた鼓動も落ち着いた。


 もう校庭を半分くらい横切ったところだった。これから引き返すと不審に思われるかもしれない。ゆっくりと歩を進めながら迷った挙句、野枝実はそのまま前進を続けた。


 下級生側の校門にはやはり部活終わりの生徒たちがたまっていた。門の脇で立ち話をしているグループが通り道を急激に狭めていたので、野枝実は彼らの背中にぶつからないように、接近しすぎないように、その塊の間を速足にすり抜けようとした。通り抜ける直前、塊のうちの一人が野枝実に気づいて体をさっと塊側に寄せてくれた。


 あ、すみません。言おうとしたが咄嗟に声が出ない。野枝実は目を合わさず軽く会釈だけしてそそくさと通り過ぎた。

 気まずい。彼らの会話が一瞬滞ったのを背後に感じた。彼らにとってはまったくもって些細なことで、そこには何らの悪意もないことがまたみじめであった。下級生たちの間をすり抜ける三年生の自分の場違い感が、それ以前にそんなことを気にしてくよくよしている自意識過剰さが。


 冷たい風を受けながら顔面が内側から熱くなるのを感じ、たまらず走り出したいと思う。でもそんなことをしたら余計に目立ってしまうので、野枝実は努めて同じ歩調を続けた。門から十分に遠ざかり、下級生の塊もすっかり見えなくなってから、声が漏れるくらいの大きなため息をついた。たとえ一瞬でも人から注目されるのは本当に苦手だ。


 こっちの門から帰るのはもうやめよう。さっきのような危険を冒してまでするようなことじゃないと思う。呼吸に合わせて白い息が立ちのぼってはすぐに消える。白いもわもわを何度か繰り返すと、ようやく顔に上った熱が落ち着いていくのを感じた。

 その人影は放課後にいつもあるとは限らないし、あったとしても遠くからその姿を認めるので精いっぱいだし、顔を見るなんてもってのほかだ。万が一その人影が近くに現れたとしても、きっとその視界に入らないように早足で通り過ぎてしまう。


 先生に会いたい。ようやく落ち着いた頭に浮かんだ言葉がそれで、また顔の火照りがぶり返しそうになる。


 先生というのは野枝実が毎日帰り際に一目見たいと願っている人で、先ほど校庭を横断しながらその姿を探した人だった。野球部顧問のみなと先生は、三年D組の担任であることと、野球部の顧問をしていることと、部活が終わる五時頃たまに校庭にいる、ということ以外よくわからない。

 ずっと前に一度だけ、今日のように五時に学校を出てきたら校庭にいた先生が声をかけてくれたことがあった。その些細なできごとと、ほとんど皆無に等しい情報だけを頼りに野枝実は毎日足繁く校庭を横断して、遠回りになる門から帰っている。ばかばかしいけれど、これくらいのことしかできない。


 二か月前の十月十五日から野枝実は湊先生のことが頭から離れない。日付まではっきり覚えているのは、そのきっかけとなるできごとがあったからである。そのできごとは野枝実にとって、今思い返しても心臓の奥がちくっとするような奇妙なものだった。

 それからというもの、野枝実は夢の中にいるようにずっとぼんやりしている。

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