2-2. 池の底に眠るクッキー

 洋服の入った袋を抱え、自宅近くのファミレスで遅めの昼食を済ませてから二人は帰路についた。帰宅した頃には太陽が西に傾き始め、自宅の扉を開けると外よりも濃厚な熱気が家中に立ち込めていた。


 うひゃー、暑い暑い、と母は家の窓をあちこち開け始め、野枝実も手伝った。外の生ぬるい風でごまかされていた汗がまた一気に噴出してくる。

 寝室の窓を開けたとき、ひときわ涼やかな風が部屋の中に入り込んだ。少しだけ湿った土の匂いがする。野枝実はしばらく窓の前に立ち尽くしてその風を浴びていた。風は汗で濡れた前髪を揺らし、首筋に滴った汗を乾かした。風は窓から部屋へ行き渡り、先ほどまで家中に滞留していた熱気が少しずつ入れ替わっていくようだった。


「はいこれ、さっきのお洋服。出してハンガーにかけときなさいね」

 野枝実に続いて寝室に入り込んできた母も、あら、ここはなんだか涼しいね、と動きを止める。

「疲れたから夕食までちょっとお昼寝しようかな」

 汗で湿った髪をほどいてブラシでとかしながら野枝実は母に言う。

「いいんじゃない。お母さんもちょっと疲れちゃったから一緒に寝ようかな」

 言いながら母はカラーボックスの仕切りの向こうでもう服を脱ぎ始めていて、野枝実は慌てて目をそらす。着替えを持って寝室を出て、リビングで素早く制服を脱いだ。


 着替えて寝室に戻ると母はすでにTシャツに着替えてベッドに横になり、涼しげな寝息を立て始めている。疲れていたのだろう。野枝実も仕切りを挟んで隣のベッドに横になり、しばらく天井を眺めた。


 母とこうして一緒の寝室で寝るのはいつぶりだろう。このところずっと夜勤のシフトが続いていた母は、夜勤明けの日には野枝実が予備校に出かける頃に帰宅して、それからいつもソファで夕方まで寝ていた。そこからまた夜勤で職場に行く日もあった。日勤の日も寝すぎないようと言ってリビングのソファで寝たり、ここ最近は職場に泊まると言ってそもそも帰ってこなかったり、母がベッドに横になっている姿を久しく見ていなかった。


「今日は楽しかったね」

 寝たと思っていた母がつぶやくような声で野枝実に言った。

「野枝実に洋服を買ってあげられるのなんて、これが最後かもね。大学に入ったら自分で好きな服を買うだろうから」

 母のほうを見ると目を閉じていた。しばらく染めていないであろう長い髪には白髪が混じり、こめかみの生え際は真っ白になっている。部屋着の半ズボンから伸びる脚は日頃の立ち仕事でたくましく引き締まっているものの、その皮膚に張りはなく加齢の影は隠せない。


 ベッドに横わたった体の上を風が通り過ぎてゆく。指先にタオルケットの感触があり、手を伸ばせば届きそうだったが今はこの風が心地よい。やわらかい風に眠気を誘われたが、今はこのまま眠ってしまうのがもったいないような気がした。

「お母さん、夏休みの間にまた一緒に出かけようよ。今度はお母さんの服とか買いに行ったり、夜にレストランでごはん食べたり……」

 母は目を開けて野枝実のほうを見た。

「そうだね、楽しみだね」

 何かを慈しんでいるような、それともただ眠いだけのような、ぼんやりと優しいまなざしだった。母は野枝実に顔を向けたまま再び目を閉じる。穏やかな呼吸はすぐに寝息に変わった。


 風のない静かな湖にボートを浮かべて、ゆっくりオールを漕いでいるような呼吸。ボートに一人で浮かんでいるのは心細いけれど、今は隣に母がいてくれる。野枝実も安心して目を閉じた。


 今年の春、母とボートに乗った日のことを思い出した。五月のよく晴れた日曜日、大学説明会の帰りに洗足池に立ち寄ったときのことだった。

 オールを使うボートは難しそうと言った母はペダル式のあひるのボートを選び、二人は白い大きなあひるに乗って出航した。ばしゃばしゃと音を立てる水面には雲一つない空が透き通り、うっすらと汗ばんだ背中には初夏の風が心地よかった。

「はい、一休みのお菓子」

 池の中央にたどり着いて一息ついたとき、母がバッグからお菓子袋を取り出した。キャラメルやのど飴、一口サイズのビスケット、母は小腹を満たすためのお菓子を花柄の巾着袋に入れていつも持ち歩いていた。

 野枝実が個包装のバタークッキーを食べようとしたとき、袋から中身が勢いよく飛び出し、そのまま池の中へ落ちてしまった。

 ぽとんと間抜けな音を立てて消えていく小さな満月のようなクッキー。あっ、と二人で声を上げて思わず顔を見合わせると、一瞬にして起こったできごとがなんだかおかしくて笑ってしまった。

「今ごろ池のお魚たちが、ごちそうだって大騒ぎしてるかもね」

 日よけの帽子をかぶった母が笑った。えくぼを作って困ったように笑う、そんな母を見たのは久しぶりで、野枝実はこみ上げるような幸せを感じてしみじみした。


 あのクッキーはどうなったのだろう。母の言うように魚たちの餌になったのだろうか。それともまだ池の底でじっと沈んでいるのだろうか。ほろほろに溶けて池の水の一部になっているのだろうか。自分の置かれた状況もわからないまま、甘くておいしそうな見た目は跡形もなくなって。

 池に落ちたクッキーのように、野枝実も深い眠りに落ちた。野枝実は夢も見ずにしばらく眠っていた。あたたかい沼の中に沈み込んでいくような、とろとろした眠りだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る