2-3. 記憶を汚したい

 生ぬるい夜風に体を撫ぜられ、野枝実は沼から浮かび上がるように目を覚ました。


 部屋はすっかり暗くなり、開け放されたままの窓から外灯のあかりと夜風が入り込んでいた。昼の熱気の名残を残した夜風は、陽が落ちた街中を通り抜けてきた匂いを含んでいた。


 部屋の向こうが明るい。寝癖のついた髪を手ぐしでとかしながら、眠気を引きずった体で眩しいリビングに入るとそこにいると思った母がいない。しんと静まりかえった、煌々と明るいダイニングがあるのみであった。

 きゅうりとわかめの酢の物、切り干し大根の煮物、冷凍餃子を皿に並べたもの、小松菜と油揚げのお味噌汁、冷めたごはん、それらのすべてにラップがかけられて食卓に鎮座している。仕事に行ったんだ、と野枝実はすぐに理解した。

 野枝実は食卓を少しうち眺めると誰もいない玄関へ向かい、母が閉め忘れた鍵を閉め、廊下の電気を消してリビングへ戻った。

 母が慌ただしく動き回っていた気配がまだ残っている。先ほどまでフライパンや鍋の中にあったあたたかい食材の匂いが、油や野菜や肉の匂いが、消したばかりのコンロの火の気配が、まだそこにある。野枝実は席についてのろのろと箸をつけ始めた。ご飯を数口運んでから冷たいことに気づき、緩慢な動きで電子レンジであたため直した。


 今日は休みのはずだったが、こういうことはよくある。きっと職場の誰かの子どもが熱を出したりしたか何かで穴を埋めに行ったのだろう。みんなにいい顔をしようとするところというか、進んで自己犠牲を選ぶようなところを目にするたび、彼女は自分とはやはり違う決定的な他人なのだということを思い知らされて白々しい気持ちが起こる。そして、その白々しさは白々しさの奥の部分に自分が落ち込まず、そこそこの感傷で元に戻れるようにあえて白けてみせているのだということも野枝実はわかっている。


 母の席には缶ビールだけが残されている。持ち上げてみるとまだ半分ほど残っているそれを、野枝実は勢いをつけて一気に飲み干した。缶に溜まった炭酸が喉をちくちくと刺し、続いてむせ返るような苦味が口の中を満たした。


 うわっ、まずっ。強烈な苦味はあっという間に鼻に抜け、異様な味に吐き出しそうになりながらどうにか飲み込んだ野枝実はあまりのまずさに顔をしかめる。ひとしきり咳き込んだ後味は最悪だった。

「こんなまずいもの飲むなんて無理」

 椅子の背に体を預けて目を閉じると、自分でも驚くほど明瞭な独り言が漏れた。そう言った直後にご飯をあたためていた電子レンジがピーと鳴り、なんだか馬鹿みたいだった。


 楽しいことを心の底から、素直に楽しめない癖が昔からついていると思う。楽しいことがあった日には、同じくらいの寂しいできごとが起こる。そんなことをいつもどこかで考えている。実際に今日もそうだった。


 野枝実は悲しいときや寂しいときに泣くということがうまくできない。目に涙が溜まるといつも、このまま泣いたらその後に一人で気持ちの後始末をしなければならないことを考えて心が別の方向に萎れてしまう。

 だから野枝実は悲しさや寂しさに直面したとき、涙を流す代わりにそれらが過ぎ去るのをじっと待つ。体に力を込め、歯をぐっと食いしばり、爪を指先に食い込ませて足の指をぎゅっと丸める。しばらくして、ふっと全部の力を抜くと少しくらいの悲しさ寂しさだったらこのときの脱力と一緒に消えてしまう。

 とはいえこの方法ではどうしようもない場合がほとんどなので、そんなときにはじっと目を閉じて横になる。横になれないときは机などに突っ伏す。いつの間にか眠ってしまうこともあって、そうして悲しみが過ぎ去るのをじっと待つ。


 今もそうしようと野枝実は、まばらに食器の残ったダイニングに突っ伏した。

 素肌の上からかぶったTシャツが胸元をこする。つんと立った乳頭にちょうど指先が当たり、ほんのわずかに吐く息が震えた。

 時間が経てばすべて少しずつ忘れていく。今寂しいことも時間が経てばそんなに寂しくないことになっている。これから先もこうしてやり過ごしていきたいと野枝実は思う。これからずっと先まで、死ぬまでそうしてやり過ごして人生を逃げきりたい。


 野枝実は洗い物もそこそこに寝室へと戻り頭からタオルケットをかぶって、母が家にいるときには我慢している声も出るに任せて、薄暗闇の中で丸まりながらせわしなく体をまさぐった。

 まぶたの裏で幾何学模様のような抽象的なイメージが浮かんでは消え、それはやがて一つの形になった。ぬらぬらする熱いわだかまりの中で、あ、と思ったとき、その形が色を持ち陰影を帯びた。

 まぶたの内側からかき分けるようにして一つの手が野枝実の目の前へ伸びてきた。その手は紙を半分に折りたたむ。指先にチョークの白い粉がついている。煙草を挟む。野枝実の手を取る。頭を撫でる。髪を撫で、頬を撫で、首筋を撫で、少しずつ下へ下へと移動してゆく。

 埃をかぶった他の記憶たちと並んで、その記憶だけはちり一つついていない。忘れないように時々手に取って思い出しているからだ。ちり一つつかないまま、今度は手垢にまみれて少しずつ原形を失ってゆく。

 その手指と自分の指の動きが重なったとき、体の奥からじわじわとこみ上げてくるものがあった。体がかっと熱くなり、熱さの電流が駆け巡り、太腿の付け根が小さく波打ち、こらえきれずにまた短い声が出た。


 熱い息を吐きながら野枝実は、またやってしまった、と思った。

 混沌とした頭脳が少しずつ停止してゆき、野枝実は浅い眠りについた。先ほどの沼のような眠りではなく、不安で気だるい眠りだった。ぬかるんだ泥道を裸足で歩くような眠りの中で、ぼんやりとエロチックな夢をいくつか見た。


 くすんだ肌色、煙みたいな息、ぬるぬるの舌。気だるい余韻が体にのしかかり、野枝実はいつまでも起き上がることができない。

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