第二章

2-1. アイスクリーム

 高校三年生の夏休み、三者面談を終えた野枝実は母と高校の門をくぐった。


「先生、褒めてたね。お母さん、あんまり一緒にいてあげられないけど、野枝実はいつも本当によくがんばってるんだね」

 面談を終えた母は上機嫌だった。表情は日傘の濃い影に隠れてよく見えないが、声色は明るく弾んでいる。


 かろうじて冷房が効いていた進路相談室を出てから、二人はうだるような熱気に包まれていた。面談中にようやく乾きかけた汗が外に出てすぐに噴出し、校門の目の前の坂道を下りきる頃には額に首筋に汗が流れ始めていた。

「それにしても暑いねえ。帰る前にどこかでお茶していこうよ」

 母は日傘を持ちつつハンカチで汗を拭く。日傘を野枝実に差し出し、「はい、ここ入って入って」と促すが、

「いいよ、日傘に二人で入るなんて変だよ」

 照れくさい野枝実はそれを突っぱねてしまう。


 重なって大きな一つの塊になっていた二人の影が、分裂したように別々の形になってアスファルトに伸びる。母の茶色い癖毛。野枝実のまっすぐな黒く細い髪の毛。緩く一つに束ねた二人の髪は、馬の親子が並んでしっぽを揺らしている後ろ姿のようであった。


 ゆらゆらと陽炎が立ちのぼる大通りを歩く人はまばらである。これから午後にかけてもっと暑くなるなんて考えられないくらいの猛暑だった。


「どこに入ろうかね。確か駅の近くにタリーズがあったよね、そこにする?」

「うーん、あそこはいつも混んでるからなあ」

 あ、そうだ。野枝実は高校のすぐ近くにそびえる東京タワーに母を案内した。


 午前中の東京タワーは空いている。おみやげ店や飲食店が立ち並ぶフロアの中ほどにあるサーティーワンアイスクリームは、野枝実がよく友達と放課後に立ち寄る場所だった。

 イートインコーナーには売り場から一番近い席に小さい女の子とお母さんが一組いるのみであった。野枝実と母はアイスを選んで購入すると、一番奥の席に腰を下ろした。

「東京タワーなんて来たのいつぶりだろう」

 キャラメル味のアイスをスプーンですくいながら、楽しそうに母が言う。

「ここ、よく友達と来るんだよ」

「いいねえ、クラスのお友達?」

「うん、そうだよ」

 言いながら野枝実は、一緒に来たことがあるのは友達とだけではないことを思い出していた。


 かつて少しだけ、ほんの少しだけ付き合っていた同級生の男子とここを訪れたことがあった。野枝実が生まれて初めて告白された異性はその人であり、その後あっけなく処女を失った相手もその人だった。

 一年前のちょうど今時分、暑さで明らかに不機嫌な様子だった彼はチョコチップの入ったアイスクリームを超高速で平らげた。

 彼のカップアイスは瞬く間にむなしくなり、一瞬にして手持ち無沙汰になった姿が間抜けというか哀れというか、なんとも言えない気持ちになった野枝実は自分のアイスを一口あげた。プラスチックのスプーンに乗せて差し出されたアイスを彼はロボットのようなぎこちない動きで口に入れ、恥ずかしそうに下を向いて咀嚼した。

 伸びた前髪が目元を隠しかけていた。その前髪が野枝実の裸の上で揺れるときのことを思い出し、野枝実は彼が口をつけたスプーンをアイスに沈ませながら、スプーンをずぶずぶと飲み込んでいくバニラアイスにストロベリーソースのリボンが混じっているのを見て少しだけ胸が攣った。そんなことを思い出した。


「さっき先生が言ってたことだけど、お母さんいいと思うよ。やってみたらどう」

 アイスを口に運びながら、母が意気揚々と言う。

 先ほどの三者面談で野枝実は担任の先生に、ある私立大学の公募推薦試験を受けてみないかと勧められた。

 学校内であらかじめ推薦枠が決まっている指定校推薦と違い、条件を満たせば誰でも出願できる公募推薦は一般受験に比べれば倍率は少し緩やかなものの、合格する人数もほんの数名であり狭き門であるが故に、とにかく試験に関する情報が少ない。今日の面談で担任に大学のホームページに載っている試験の概要を見せてもらったものの『面接、筆記試験、事前課題による総合的評価』などとあり、ますますよくわからない。それに、推薦によって合格した場合は必ずそこに進学しなければいけないという条件に野枝実は引っかかっていた。

 野枝実の全体的な成績はずっと中の上あたりだったが、三年生になって文系科目だけが必修になり、今学期は入学以来最高の成績だった。その評定が公募推薦の基準を満たしているのだと言われた。


「この大学はほら、英文科もレベル高いし、外国語をやりたいなら外国語学部だっていいし、ほら、今時は国際系も就職率がいいからねえ。それに女の子の場合、国公立よりもある程度有名な私立のほうが就職ではかえって有利っていうこともあるんですよ」

 生成り色のざっくりとしたシャツを着た担任は、野枝実と母を交互に見ながらのんびりとした調子でそんなことを言っていた。一番の得意科目だからという理由で漠然と英文科か国際系の学部を志望していたが、そんなに大雑把な説明を受けるとその志望も正しいものなのかと揺らいでしまう。


「今からその推薦の準備して間に合うのかな。どんな試験なのかもよくわからないし、もし推薦で合格したらそこに行かなきゃいけないんでしょ」

「受かったらラッキーだと思って、って先生も言ってたじゃない。今まで通り国公立の準備をしてその合間に公募推薦の準備を、ってやれば両立できるって」

 母はもうすっかりその気になっている。何なら野枝実が全勝した気になって、よりどりみどり悩んでいるような口ぶりだった。


 四月に担任と二者面談をしたときには、経済的な理由で第一志望は国公立にすると確かに伝えていたはずだった。すれ違いを感じた野枝実は何度も言葉が出かかったが、国公立は見込みがないからやめておいたほうがいいと遠回しに言われているのではないかと思い、結局口にすることができないまま、終始のんびりとした雰囲気で面談は終わってしまった。


「でも、もし私立しか受からなかったらお金かかるじゃん」

 野枝実はぼそぼそと母に打ち明けた。ずっと前から気にしていたことだった。

「そんなこと心配してるの? 大丈夫に決まってるじゃない」

 母はわざとらしく目を見開いて笑顔を作り、声高に言った。

「学資保険もあるし、ちゃんと他に積み立てもしてるんだよ。野枝実が大学卒業するまでばっちりよ」

 なーんの心配もないんだから、と母は胸を張ってみせる。野枝実を安心させようとするとき、その場に微妙にそぐわない明るさの語彙を持ち込むいびつさが母にはある。そうやって安心させられるたびに野枝実は胸を針でちくちく刺されるような痛みを覚えた。母の無理を感じ、それとは対照の眩しい言葉にめまいがした。

 母の困る顔を見たくないという思いがある。いつも明るいお母さんでいれば野枝実の安心が保たれる、と心の底から信じている母を揺らがせたくないという思いがある。血縁関係もない赤の他人である自分をここまで育ててくれたことを無下にしたくないという思いがある。


 野枝実は曖昧な返事をしてアイスを口に入れた。耳にかけていた伸びかけの前髪が目の前に垂れた。つい先ほどまであんなに甘くておいしかったアイスクリームが今は何の味もしなくなって、ただミルクのもったりした後味が舌にまとわりつくばかりだった。


 アイスを食べた後、母は有楽町のルミネに野枝実を連れて行った。予備校もオープンキャンパスも制服で予備校行ってるでしょう、と言って野枝実に買ってくれたのは水色のワンピースであった。

 膝より少し長めの丈ですとんとしたシルエットのワンピース。母と店員に促され試着してみると、思いのほか似合ってしっくりきている自分の姿が鏡に映る。野枝実は早く母に見せたくなり試着室のカーテンを開けた。


 近くで談笑していた母と店員のまなざしが注がれる。母はぱっと笑顔になって「いいじゃない」と声を上げ、

「予備校に行くときはほら、冷房でちょっと寒いだろうからいつも着てるカーディガンと合わせて、お出かけのときはこれ一枚で、サンダルなんか履いたらすごくかわいいよ」

 あ、この帽子も似合いそう、と母は次々にコーディネートを提案する。隣にいた若い店員もうんうんと頷き、「お嬢様のかわいらしさがすごくよく引き立ってます」などと褒めちぎる。一気に注目を浴びた野枝実はばつの悪い顔をしていたが、内心は新しい服に心が躍っていた。

 鮮やかな水色の生地は、色白の野枝実の肌によく映えた。袖のところはボリュームを持たせたつくりになっていて、少しむっちりした二の腕をうまく隠してくれた。リネンの生地にはうっすらとギンガムチェックの模様が施されていて、野枝実はそこも気に入った。


「このまま着ても素敵ですけれど、こちらのベルトを合わせますとウエストが締まって、より女性らしいシルエットになりますよ」

 あらそれも素敵、と母はすっかり店員のトークに乗せられている。

「見れば見るほど似合ってるねえ。もうこれ、着て帰っちゃったら」

「だめだよ、帰るまでに汗かいて汚れちゃうもん」

 本人以上に楽しんでいるような母を野枝実が諫めると、店員が「しっかりしていらっしゃいますね」と笑った。母の隣ではにかみながら、野枝実は自分に似合う新しい服が嬉しかった。

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