第38話 蜃気楼
雪に覆われても駅前から、永平寺行きのバスは出ている。除雪された二車線の道以外は絶え間なく降り積もる中をバスは進んでゆく。疎らに点在する民家を曲がりながら深い雪景色の国道を走ると、やっと山あいに開けた店らしきものが点在する駐車場に着く。
バスを降りると狭い二車線の門前通りの県道沿いには、食堂、レストラン、土産物店等が連なり、広い駐車場を併設している所は、歯の抜けたようにぽつりぽつりと店が在る。どの店にも屋根から下ろした雪が道端に小山を作っていた。吹雪除けに入り口は格子の入った一面のガラス張りで、奥には石油ストーブが雪灯りで揺れている。一応は門前らしく店が並ぶ通りを歩くが、傘に重みを感じて雪を払うように素通りしょうとする。
そこへ店の売り子の女の子に声を掛けられてしまった。真一はそこで足を留めると渚さんはちょっと眉間を寄せられてしまった。
「此処はいつもこんな雪なんですか」
と声を掛けると売り子は、例年に無い豪雪でお客さんの入りも良くないとぼやかれた。
彼女の話では雲水の修行は相当厳しいようだ。ここで修行して全国の曹洞宗の寺を任されるらしい。ちょうど今頃は全国から若い新人の僧侶が入門にやって来る。自分を極限まで律しなくては、とても生半可の気持ちでは無理だと売り子に諭されて店を出る。
この雪ではいつまた吹雪くか解りませんもの早いお参りを、と愛想笑いで見送られた。渚さんに急かされて真一は、帰りには寄らせて貰いますと店を後にした。
渚はいつ頃からこの寺に興味を持ったのだろう。
「どうして修行僧に興味を持ったんですか」
「先ずは雲水の心意気を察して望まないと失礼でしょう」
しかし今までそんな素振りのなかった渚が、初めて知ったのは福井駅で見かけた永平寺行きと云う、電車の案内表示からなのは確かなようだ。それから二十分、吹雪混じりの中を雪煙を上げて爆走する車窓から募らせたのだろうか、やはり真辺の動きを気にしているのか。しかし切っ掛けは彼女の実家への帰郷で、真辺の同行を断り切れなかったのを悔やみつつ、この寺へ懺悔を捧げに来たのだろうか。この人がこんなにも気にする人とは思えない。おそらく心の深淵をさらけ出して参拝するつもりなのだろう。と真一が彼女の心を覗く内にそこから五分ほどで県道は小さい川に突き当たる。
一帯には杉が林立する低い石垣に囲まれて建物が見える。参拝はその先にある龍門から入るらしい。そこは道路と寺との境目のように中央の石畳には車止めが置かれて、両端には玉砂利が敷かれている。入り口を示す二メートル弱の石柱のふた柱には仏語らしきものが刻まれている。良く雪掻きされた石畳の道を少し入ると土塀が続き通用門に辿り着く。そこから総合案内所にあたる吉祥閣に入り渚は座禅を申し込んだ。
単なる参拝だけかと思った真一にすれば寝耳に水で驚愕する。座禅の日帰り体験版は真冬の大雪もあって比較的に空いてスムーズに申し込めた。所要時間は五十分で午前の部は過ぎて居るので、昼いちばで午後の一時半を予約した。渚さんが参加申し込みと志納金を払い終えると、いよいよ現実味を帯びてしまった。まさかそこまでの心の準備が伴わない真一には戸惑いは隠せない。それを渚さんに見透かされて、こんな近くに住んでいながら一度も体験修行をしていないのには驚いたようだ。
「結構若い女性には人気があるのよ」
それと今日の突発的な行動とは、どうしても結び付かない。それを尋ねる前に彼女はサッサと受付を済ます。
座禅は申し込んだ吉祥閣の四階で体験する。衝立や壁に向かって不動の姿勢で座禅する、この間一切の私語はない。もちろん隣に居る彼女の状態も一切見られない。ただ一心不乱に瞑想に耽るのみだ。
座禅を終えると回廊で結ばれた七堂伽藍を見て回る。ここの山門は一般者はもちろん修行中の雲水も、入山する時と修行を終えた時しか通れない。各伽藍を巡る廻廊からは降り積もる雪の中で、お経を唱える雲水の声が響くと渚は立ち止まる。ここで一番気になる質問を彼女に打っ付ける。
「渚さんは急に急かされた決算書をどうするか知ってるんですか?」
「なぜ急にそんなことを聞くんですか」
「わざわざこんな雪深い山中の禅寺に興味を示したからですけれど」
そうねーと言いながら歩き出した。ちょうど七堂伽藍の中央、仏殿に差し掛かった。
「案内書によればここには過去現在未来の三体の仏さんが祀られているのね」
「と云うことは真ん中の仏さんが現在なんでしょうか」
「そう言えばあの真ん中の仏さんが菅原さんでしょうか」
「エッ! 何でまた」
「でもあたしの決算書を見るのは菅原さんでしょう、まさか真辺が口を挟むものでもないし」
「そりゃあまあそうでしょうけれど、でも会社の決算書を最も必要としているのは社長でしょう」
「それを誰が手直しするんですか」
真一は心を整えようと仏さんに合掌した。
「急に何なの。で、知ってるんでしょう」
合掌を終えて歩き出した。
「それが菅原さんなんですが……」
「もうー辛気くさい。あの人が間違いを直すのでなく間違うように指示したのは誰ですか」
仏殿から長い坂の回廊を下っている。読経の低く響く声と、甲高く鳴り響く吹雪が、微妙に掛け合わさって、二人を取り巻くように流れる。その風雪の流れに乗せられるように真辺だと云ったが、渚さんは苛立つように聞こえにくいからもっとハッキリと促される。
「社長の真辺だ」
そう、と静かに彼女は頷く。
「それでどうするつもりなの」
「今日はまだ菅原さんが手直しを作成中ですから明日中には真辺がそれを元にして更なる行動を取るかも知れない」
「それを阻止する手立ては受け取らなければ良いのよね」
社長の業務命令に、どうして社員が逃れられるんだろう、と真一は首を傾げる。だが彼女はお構いなしに「急に雪の中を歩きたくなったの」と庫院を通り浴室の伽藍から、ビニー袋から靴をだして、二人は雪深い庭に出た。
受付では敷地を離れると、この雪では吹雪くと戻れなくなる。だから寺の伽藍や廻廊と除雪された道以外は、出歩かないように念を押された。なんせ永平寺は敷地面積の六倍の杉林に囲まれている。だからこの雪が小やみでも、降れば戻れなくなるかも知れないから、念には念を、で、云われた。吹雪くと建物から数メートル先でも、戻れなくなりますからくれぐれもご用心よ、と散々云われたにも関わらず彼女は庭へ出た。
彼女は何の迷いもなく降りしきる雪の中を、何かに囚われるように突き進む。真一も思わず後を追った。次第に風が強くなり、空からと積もった地面の雪までも巻き上げ始める。
「渚さんそれ以上進めば危ない、戻りましょう」
「大丈夫よそのときはこの足跡を頼りに戻れるでしょう」
「見分けられればね」
「でしょうね」
「しかしスノーアウトすれば戻れなくなります現に吹雪いて建物も霞んでますよ」
「でもあなたは戻れた」
「あの時は黒く流れる九頭竜川で助かったけれどここは周りが深い杉で覆われて目印は寺の建物だけですから振り返っても、もうぼんやりとした影しか見えませんから引き返しましょう」
「ダメですこの先にお母さんが待っているのよ」
真一の背筋に悪寒が走る。一体この人は座禅で何を会得したのだ。
「そこにあなたのお母さんはいない!」
「じゃあ何処に行ったのッ、探さないと」
「もうそれ以上動いちゃだめだ!」
目の前を行く渚が陰りだした。スノーアウト、白い闇が彼女を包みだしたのだ。真一は猛ラッセルするが、渚は完全に白い闇に包まれてしまった。その闇に向かって「君は五体満足で死するは愚か者だと云ってたんでしょう、そうじゃあなかったのかッ」
この吹雪で果たして声は届いているのか、不安に駆られるが「ええ、でもあたしは心を病んでいるのッ、それに貴方には響子さんがお似合いよッ」と幽かに風が震えるように伝わると、真一の意識はスノーアウトの恐怖と絡まりどん底に滑り落ちて逝く。
よく晴れた春の日、関西空港の送迎デッキで、誘導路から滑走路で佇むジェット便を見送る響子と真一が居た。響子さんに謂わすと、救われた自分の命と向き合って出した結論らしい。そしてあの人は常に"なぎさ"に立っている人なのかも知れないと漏らした。
誰かがサヨナラと囁くと、飛行機は轟音を響かせて滑走路を爆走する。
機体が軽く浮き上がると、そのまま急角度で舞い上がった。大阪湾上空で機首を東に変え、一路シアトルへ向けたジェット機は、彼女を蜃気楼の彼方へ連れ去った。
(完)
振り向けば蜃気楼~ 和之 @shoz7
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