影におびえる 後編②
そうして闇に飲まれ、気が付けばこの場所だったという次第。
今はこの場所から移動して、少しでも情報を集めたい。
のだが、なぜか見えない壁に阻まれて部屋の外に出られない。
五回目の挑戦も無慈悲に跳ねのけられて、香は大哉の隣でむくれていた。
何もないのに外に出られない。
大哉からすれば、これは結界の一種であるとわかる。
が、何も知らない香からしてみれば、見えている場所に行けないという理不尽は受け入れがたいものがあるのだろう。
「どこかわかんないし、部屋から出れないし! ほんとになんなの?!」
「……それは多分、今からわかるっすよ」
大哉が誰もいない前を睨みつける。
いつになく硬くこわばった声に、香は息を飲み込んだ。
いつの間にか首筋にじっとりとした汗が浮いている。
息がつまるような、今すぐ走り出したいような。
妙な感覚、見えない圧迫感のようなものがあった。
どこか覚えがあるような、初めて味わうようなその感覚。
あえて言葉にするならば、それはホラー映画を見た時に感じる、何もいないはずの背後に何かがいるような感覚だった。
呼吸の音が嫌にはっきりと聞こえる。
何かがおかしい。何かが、入り込んできている。
そう感じるのに、その何かの正体がわからない。
「よく、お分かりになられましたな。
よくとおるが、どこか覇気のない声が響いた。
その瞬間、瞬き一つする間もなく部屋の中の空気が塗り替えられる。
吸い込む空気の質感が変質していくことを認識して、香はようやく違和感の正体に気づいた。
どこか遠いようで近いところから流れ込んでくる異質な空気が、いつの間にかこの部屋に充満していたのだ。
そして、小さく流れ込むだけだったそれが一気に広がり、この空間を塗り替えていく様を肌で感じた。
身震いして思わず腕を抱きしめた香をかばうように、大哉が腕を掲げて前に出る。
その指にはいくつかの符が挟まれていた。
息が少しだけ、楽になった気がした。
掛け軸が飾られた床の間の、そのすぐそばにそれはいた。
平伏しているため、顔はわからない。
だが一応人の形はしているようで、薄い黄金色の髪が印象的だった。
警戒が伝わったのか、ゆっくりとそれは顔をあげる。
思っていたよりも年を食った、絵物語に描かれる鬼のような
上体を起こしたことで着物の隙間から覗く白い肌には、所狭しと
目を見開いて、思わず姿勢を崩した大哉に淡く微笑みを向けた鬼はすっと息を吸いこむ。
「これは失礼を。わたくし、この度
寄絃のお家にてこの身を預かっていただいております子飼いの鬼にございます。
ありがたくも前当主様より頂戴いたしました名、
以後、お見知りおきのほどを」
部屋の中に満ちているあちら側の空気。
それと共に現れた、阿久良と名乗る人型の鬼。
その体に刺青のようにして刻み込まれた無数の呪印。
思い浮かぶのは、顔の半分以上が前髪に隠されている面倒くさがりな友人の顔だった。
「えっと、あくら……さん? ここどこ? アタシらなんでこんなとこにいんの?」
「はい。ここはわたくしが使役している闇沼を通じてしか来られぬ、隔離された座敷牢にございます。
わたくしの自室、とでも申しましょうか。人間の方々をお招きするには少々あちらに近すぎるため、お招きする際にはいくつかの準備が必要となりますが。
あぁ、ご安心ください。此度はわたくしが桃園様ならびに平木様をお招きしたのです。
護法の術も張り巡らされておりますれば、あなた様方が転がることはありませぬ」
「……コウちゃん先輩、なんともないっすか?」
「なにが?」
阿久良へ目を向ければ、淡い微笑みを浮かべたままだった。
まるで笑顔の顔文字を書いた紙をそのまま貼りつけたような、質感のない笑みを。
聞きたいことは山ほどあるが、ひとまずこの安全かもよくわからない場所から香を逃がすことが先決だった。
護法の術は確かに張り巡らされているが、あちらに関することで万全などという言葉は通用しない。
手に持っていた符を再び掲げて、香がこれ以上阿久良に近づかないようにしながら声を絞り出した。
情けないくらいに足が震えていることが、せめて後ろの先輩にはバレていませんように。
「手短にすませたいんで、さっさと話進めてもらっていいっすか」
「ええ。もちろんにございます。
お二方を拙宅へお招き申し上げましたのは、現在行方不明となっております
叫びそうになった香を目で止めて、阿久良はゆったりと息を吸いこむ。
大きく開かれた目が危うげに揺れる様に目を細め、その心に吹きすさぶ嵐の気配を吹き消すように声を滑らせる。
「御厨様と大嶽は現在、闇沼のうちに囚われております。
わたくしはその闇沼の本体を見つける所までは行ったのですが、連れ戻すことは叶わず。
かなり深くまで取り込まれている様子でございました。
このままではあちらに渡ってしまいかねないと判断し、あなた様方がお持ちのあの方々との
「やる! やるから、だからあずちんをたすけて! おねがい!」
阿久良に飛びつこうとして、大哉に阻まれて。
それでも香は必死に叫んだ。
焦ったように止めに入る声など右から左へと流れている。
淡い微笑みを固定したままの顔は、そのにぎやかなやり取りを無感情に見つめていた。
「コウちゃん先輩! 気持ちはわかるっすけど! 落ち着いて!」
「なんでもする! 何でもあげる! だから、だからあずちんを助けてください! お願い、おねがいします!」
「平木様は、本当にご友人の鏡にございますね。
ええ、はい。もちろん、お力をお貸しいただけるのでしたらすぐにでもお助けいたします。ほら、このように」
ごぼっ、と水の泡立つ音が阿久良の影から響く。
にわかにすくみ上った体に対応しきれず声を失くした香の前に、大哉のまだ成長途中の背中が立ちふさがる。
その身を挺して隠した阿久良の影は、今まで気づかなかったことが不思議なほどに激しく波打っていた。
「あんた、自分の影に闇沼を飼うとか正気か?!」
「それがわたくしの在り方なれば、不可思議なことなど何もありませぬ」
ごぼり、ごぼり
泡の立つ音がする。
そこにあるのは影と闇だけのはずなのに、水をかきまぜるような冷え冷えとした音が響いた。
影が、揺れている。
ゆらゆらと、影のふりをしていた闇が揺れている。
いつの間にか、部屋の中にあった影のほとんどが擬態を止めて泳ぎだしていた。
畳の上をするすると泳ぎ揺れるそれが、足元をかすめるたびに全身に寒気が走った。
震えが止まらない。
「ご安心ください。わたくしの
そう言う問題じゃない、と叫びたいのに歯の根があわず声が出ない。
怒鳴り声になり損ねた息が歯の隙間からもどかし気に漏れ出ていった。
ごぼ、ごぼ、ごぼ
音が激しくなる。
闇の底、影だったものの中から何かが浮き上がってきている。
たいして強い光のないこの場所で、濃くくっきりとした影の群れ。
そこから何が浮かび上がってきているのか。そんなことはわからない。
それでも香を逃がさなければ、ということはわかった。
わかるのに体が動かせない。
思考は回るのに、体は動かない。
一歩でも動けば、足元を無造作に泳ぎ回っている闇に飲まれて終わると本能が知っていた。
背中にすがりついてシャツを握る手の震えだけが、大哉をこの場に立たせていた。
ばしゃん
大きな飛沫を飛ばしながら、人の手らしきものが飛び出した。ひゅっと喉が鳴る。
「せ、先輩! おれの後ろから出ないで!」
もう叫ばなければ、そこに立っていることすらできなかった。
隠しようもないほど震えている体の怯えは、伝わってしまっているだろう。
顔を歪めながら、符を掲げた大哉の前で阿久良は涼やかに微笑んだままだった。
「勇ましく、弱き者をかばい鬼の恐怖に立ち向かう。やはり、桃園の家はよい後継者に恵まれたようですね。喜ばしいことです」
自らの影のうちから人の手が飛び出してきたというのに、動じた様子はない。
何かを探すように宙をさまよう手を見下ろして、突然身をかがめてそれを掴む。
引きずり込まれる。
大哉が抱いた冷たい予感とは裏腹に、阿久良は掴んだ手を勢いよく引っぱりあげた。
ざば、とやはり水のような音を立てて闇が揺れる。
「さすがは
「た、け……?」
黒い水をかぶったように薄黒い色味に染まっていたが、確かに阿久良が闇から引き上げた手の主はタケだった。
闇から引きずり出されながら、ゆっくりと畳の上にその身が横たえられる。
その腕の中には、同じく薄黒い色に染まったあずさがいた。
タケの体を引き抜いた後には、闇はただの影に戻っていた。
大哉と香の周囲を踊っていた闇の群れも、どこかへと消えていた。
部屋の中に落ちる影の一つを見ても、そこにはもう鬼がいた残滓すら残っていなかった。
「あー。くそっ、ぜったい寿命ちぢんだ」
どさっ、とその場に崩れ落ちた大哉の様子は、怖いことが終わったのだと知らせていた。
香はまだ震えが止まらない足を叱咤して、阿久良の足元に転がされているタケとあずさのもとへ向かう。
せいぜい数歩の距離しかないはずなのに、やけに遠く感じた。
目的地にたどり着いて、へたり込む。
得体のしれない闇色の水に触れることもためらわず、その肩を掴んで揺らす。
「あずちん……? あずちん、ねぇ、あずちんでしょ? 起きて、ねぇってば! 起きてよ、起きて! あずちん!」
「平木様、今は眠らせて差し上げましょう。
何も心配なさることはございません。こうして、こちらに戻せたのです。
あちらに渡ってしまうことはないと断言いたします。
ならばもう、後はゆっくりとその身を癒し、こちらへ馴染ませる他ございませぬ。
心を落ち着けてくださいませ、さ、ゆっくりと、息を整えて耳をすまされませ。
御厨の巫女様の息吹を、聞くことが叶いましょう」
転がるかもしれないから、楽観したらダメだろ。
なんて言えるはずもなかった。
ちらり、と向けられたどこかぼんやりとした印象の目にうなずいて、大哉は天井を見上げた。
大きく息を吐いて体を起こす。
しゃっくりあげている香の背中と、その向こうに見えるタケが確かに生きていることに体から力が抜けた。
この後のことだとか、祖父への報告のことだとか。
そう言う面倒なことを、今だけは考えずに友達の無事を噛みしめたい。
力の入らない足で立ち上がって、倒れ込むように香の隣に座った。
「だいちゃん、あずちんいきてる。いきてるよ。タケっちも、いきてる。ふたりとも、いきてるの。よかった、ほんとに、よかったよぉ」
「そうっすね。本当に、よかったっす。おれも、うれしいっす」
歓喜を分かち合っている人間の声だけが部屋の中に響いていた。
いつの間にか、部屋の中の空気からは異質なものが消えて、元通りのごく普通のそれへと戻っていた。
阿久良という鬼の痕跡ごと、すべては何もなかったように消え去っていた。
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