影におびえる 後編①
ピピピ、と電子音が鳴る。
みらんはゆっくりと目を開けて、目の前で騒いでいる目覚まし時計を叩いた。
カーテンの向こうにある光はまだ薄い。
二度寝を決め込もうとして、目を閉じて布団に潜り込む。
長時間眠り続けてしまったような、まったく眠れなかったような。
とにかく体に不可思議な倦怠感が蓄積されていた。
朝練、サボろ。
今までも何度かサボったことがあるから、またか、くらいで先輩も同級生たちも納得してくれるだろう。
目覚まし時計に中途半端に覚醒させられた意識が、まどろみの中に沈んでいく。
そのまま目を閉じていれば、体の感覚がどんどんと遠くおぼろげになっていった。
『小山さん、逃げて!』
もうじき眠りの中に落ちられる、という瞬間。
自分を救って身代わりになった、名前を忘れてしまった同級生の声が聞こえた。
おぼろげに暗闇の中に溶けかけていた意識が一気に引き戻される。
目を開けてシーツを呆然と見ているみらんの頭の中に、急激におぞましい出来事の面影が浮かんで刻まれていく。
忘れていたなんてどうかしている、恐ろしい出来事の記憶がよみがえっていった。
ぎゅっと目をつむる。閉ざされた闇は、あの影とは違ってぬくもりがあった。
暗い影に飲み込まれていく少女の、安堵にゆるんだ笑みがまぶたの裏に浮かび上がって固定される。
みらんは耳をふさいだ。
聞こえるはずのない叱責の声が聞こえた気がして、思わず叫び声をあげてしまいそうになる。
「……私の、せいじゃない」
ぽつり、と声が出てくる。
どこからか聞こえてくるひそひそとしたささやき声が、指の隙間から耳へと侵入してくる。
頭の中から発生しているそれを止めることはできず、みらんは身を縮こまらせた。
「私は、悪くない」
あいつが勝手に助けに来て、勝手に消えただけ。
私が何か言ったわけじゃない。助けてなんて頼んでない。
胸の中で、口の中でずっと呪文のように唱え続ける。
そうやって耳の奥から湧き上がってくる声をかき消していないと、何かに押しつぶされてしまいそうだった。
『小山さん!』
「うるさいな!」
名前も覚えていなかった昔の知り合いが、まっすぐにためらいなく名前を呼んだ。
知らないものとしてふるまっていた自分のことを、向こうは覚えていた。
その事実がたまらなく恐ろしくて、みらんはとうとう耐えきれずに叫び声をあげた。
母親の声が聞こえたが無視した。
部活の朝練も学校もどうでもいい。
外に出たくない。
誰にも会いたくない。
声をかけられることも、姿を見られることすらも、今は嫌でたまらないのだから。
目を開けても閉じても浮かぶ残像は消えず、耳をいくらふさいでも自分を責める声は止まらない。
私は悪くない。
私は何もしていない。
あいつが勝手にやっただけ。
私が何かしたわけじゃない。
怒られるようなことなんて何もしていない。
私だって何があったのかわからないのに、なんでそんな風に言うの。
馬鹿じゃないの。人間が影に飲み込まれるとか、あるわけないでしょ。
私は悪くない。
私がやったんじゃない。
私のせいじゃない。
私のせいじゃない!
……なんで私、あんなわけのわからない、頭おかしい母親に捨てられるようなやつにこんな嫌な思いさせられてんの??
不規則に大きな音を立てていた心臓が急激に落ち着いていく。
狭まっていた視界がゆっくりと開いていって、頭の中に響いていた無数の声がきれいに霧散した。
「そうよ。私は悪くない。あいつが、全部あいつが悪いんじゃない」
あいつに関わろうとしたから、怖い目にあったんじゃない。
あいつがぜんぶ悪いのよ。
明確な思考がくみ上げられていく。
太陽に照らされているのに冷えた空気の中、アスファルトを泳いでいた闇。
自分の名を呼んで、助けられたことに安堵した少女の顔。
それらが分厚い壁に囲まれて隔離されていく。
長く息を吐き出して、みらんは体を起こす。
若干の顔色の悪さは残っていても、もう痛む良心による呵責にもだえていた気配はどこにもない。
「あー、学校いくのめんど。あ、そうだ。あやのに不思議ちゃんと大人DKのこと言わなきゃな。
……もっと面白そうなことしてたら楽しかったのに。手つないでる親子みたいだったとか、それはそれで笑えるけど」
何もなかったかのような、気だるげな声が部屋の中に響いた。
ここ、どこ?
あまりにも迅速に事が進みすぎて事態を把握できない。
呆然とした顔にそんなことが書かれている気がして、隣にいた
人の気配はなく、物音の一つもない。
砂利と岩、それから少しの植物が島と海に見立てられた庭の静寂。
それがそのまま形になったような場所だった。
京都に修学旅行に行ったときにしか見たことのない、わびさびの趣がある庭の景色を楽しむ余裕などない。
開け放たれた戸の向こうに踏み出せず、見えない壁に阻まれた香が部屋の中央に戻ってきて座り込む。
「……ねぇ、大ちゃん。アタシたち、さっきまで学校にいたよね?」
「そうっすね」
「なんか、影から出てきたよね? アタシたち、つかまって影に引きずり込まれちゃったよね?」
「……そうっすね」
「なんでこんな京都のどっかにありそうなとこにいんの?」
「影がここにつながってたからじゃないっすか」
そう言う答えを求められているのではないとわかっていても、大哉はあえてそう答えた。
それ以外、何も考えたくなかったし、香に話したくもなかった。
はっきりと顔に「そうじゃなくて」と不満が出ているのを無視して、大哉は整えられた枯山水を見やった。
ついさっきまで二人は学校の屋上で、あずさとタケが今日も学校に来ていないことを報告し合っていた。
数日前のあずさの態度から嫌な予感に結びつけたらしい香は、ひどく落ち着かない様子で顔色も青ざめている。
もう限界だった。肉体も、精神も。
やっぱり何かあったんだって! 探しに行かなきゃ!
居ても立っても居られず、今にも当てもなく走り出しかねない様子の先輩をなだめながら、大哉はその予感を否定することはできなかった。
しかし、何があったのかわからない以上探しようがない。
せめて、と祖父に話しても色のいい返事はなかった。
タケはともかく、あずさは大哉の祖父にとっても重要な存在であるはずなのに、だ。
また何かたくらんでいるのか、隠し事があるのか。
なんにせよ、いい加減進展があったか聞いてみるべきだ、と考えていた矢先。
「あれ、大ちゃんの影変じゃない?」
「変? なにが……は?」
影が、不自然にゆれていた。
海中で揺れる海藻のように、ゆらゆらと。
風に吹かれた木の影のように、ざわざわと。
自分の体が揺れているわけではない。
影が、別の何かにすり替わっている。
ざっと血の気が下がった。
「先輩、逃げ」
警告を最後まで言い切ることはできなかった。
影が揺れ、闇が波打つ。
「きゃっ!?」
「コウちゃん先輩!」
水のように波打ってしぶきをあげながら、影の中から闇が飛び上がる。
香の腕に絡みついたそれを外そうと掴んだ大哉の手にも、それは絡みついてくる。
氷水を血管に流し込まれたようなおぞ気に体が震える。
香の腕をとる間に、足から全身へ絡みついた闇の手が影に引きずり込もうとうごめいた。
「なにこれ、なにこれ?!」
「くそっ! なんで
「なに? ほんとになに?!」
現状の把握ができないほどに思考が理解を拒む。
香の悲鳴に応えてやれる余裕は、大哉にもなかった。
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