影におびえる 幕間

 沈んでいく。ゆっくりと、腕の中に何かを抱えて。冷たい闇の中を沈んでいく。


 肌にねばりついて絡みつくような、肉も骨も通り抜けていくような感触がした。


 この腕の中に抱えたものは何だったか。離さないように、しなくては。


「おかぁさん、おかあさん」


 小さな声に目を開けた。オレは今まで、目を閉じていたのか。


 胸が張り裂けそうな声が闇の中に響いている。


 泣いている。誰か、おそらく小さな人間の子どもが、泣いている。


「わたし、もうなにをいわれてもなかない。こえをだしてわらったりしない。


 こまらせるようなことも、なにもしないよ。ずっといい子にしてる」


 水の中のように闇がうごめく。


 腕の中を見れば、光の膜につつまれた何かがいた。


 手首に巻かれているのは、虫のしらせか。守護の法も込められているが、光の膜はそれのせいか。


 それにしても。


 ……これはだれ、だったか。


 守護の光に包まれたちっぽけな命。


 オレはなぜ、こんなものを後生大事に抱えているのか。わからない。わからない。思考が、回らない。


 このままではこれも、オレもこの闇にいずれ溶かされる。


 これが何かはわからないが、この闇がどういうものかはわかる。


 この闇は、オレでも食えないものだ。


 実体があるように見えて、そこには何もない。こちらの物である影が鬼に成ったもの。


 影はそこにあり、触れることができるが食うことはできない。


 影に由来するこの鬼を、こちらの性質が強い今のまま食うことはできない。


 闇に光が溶かされている。このままでは、これが溶かされるようになるのも時間の問題か。


「わがままもいわない、いうこともちゃんときいて、おかあさんがなにしてほしいのかかんがえるよ。


 もうなにもほしがらない。おばあちゃんにもらったものもすてる。いやなこと、なにもしない」


 胸が痛む。それがひどく面倒なことに思えた。


 闇に溶かされた光に乗って、何かがオレの中に入り込む。


 張り裂けそうな痛みと、全身の力が抜けていくような寒さ。


 そして、誰にも知られないように隠された赤い血を流す傷だらけの心。


 人間の子どもは、こんな心地を覚えるものだったか。


 こんな痛みを、抱え込むようなものだったか。わからない。オレには、わからない。


「だから、おねがい。おいていかないで」


 震える声が突き刺さった。


 光が、ゆっくりと溶けていく。


 溶けてはがれた光の欠片が触れるたび、何かを流し込んでいく。


 オレの何かを揺さぶって起こそうとする。


 あぁ、面倒だ。


 目を閉じた先に、見知らぬ光景が浮かぶ。


 声をあげたくともあげられない、子どもの泣き声が聞こえた。





 そこは、おそらく大型のスーパーとかいう場所だった。


 オレはそこの、色彩に溢れた丸みのある絵の袋が並ぶ棚のあたりに立っていた。


 オレの足元を小さな人間の子どもが通り抜ける。


 おそらく、あの光の守護に包まれていた人間だろう。


 小さな命が駆け寄った先には、赤い尖った靴を履いた女がいた。


 あれが、母親か。


「おかあさん、あのね、これ、ほしいの」


 子どもが持ち上げてみせた箱には、キャラクターキャラメルと書かれていた。


 母親はそれを見ると、神経質そうな顔をさらにとがらせた。子どもが肩を揺らして固まる。


 機嫌を損ねたと、一目で理解したらしい。


「駄目よ。そんな砂糖の塊、食べて虫歯になったらどうするの」


「で、でも。みんな、このおかしのシールあつめてて、わたしも、ほしいの」


 大きな舌打ちが聞こえた。緩く丸まった髪をかき上げて女は子どもから目を離す。


「こ、これだけ。これだけでいいの。いっこだけ、かってください」


「これだけでいいって」


「う、あ……これだけ、かってください」


 侮蔑が込められた吐息と共に吐き出された言葉は、子どもの体を簡単に委縮させた。


 あれは知っている。


 圧倒的に下にいる者が分不相応な言葉で何事かをねだるさまを見た時の、人間の反応の一つだ。


 あの母親にとって、震えながらも懇願する子どもはそういう位置づけにあるらしい。


「駄目だって言ってるでしょ。一回で聞きなさいよ、グズ。


 だいたい私にお願いして何とかなると思ってんのが腹立つのよ。甘えないでちょうだい」


「だ、だって、みらんちゃんは、おかあさんにおねがいしたらかってもらえたって。


 だから、おかあさんにおねがいしてみたらいいよって、だから、おかあさ」


「うるさい!」


 菓子の入った箱が軽い音を立てて床に転がる。


 子どもの顔は見えないが、どういう状態かは見ずともわかった。


 目をつり上げて、子どもを見下ろした母親はすさまじい剣幕で怒鳴る。


「虫歯になるからやめなさいって言ってるでしょ! なんでそんなこともわからないの?! ちゃんと理由を言ったんだから一回で聞きなさいよ!


 他の子の親を引き合いに出して、そんなに私をおどして楽しい? ねぇ、答えなさいよ! よその親と比べて、母親を脅迫するなんてどこで覚えてきたの!


 あんたまで、私を責めるの? 虐待だとか、育児放棄だとか言って、私を悪者にして楽しい? ねぇ、楽しいかって聞いてんの!」


 子どもの肩が大きく跳ねた。


 不規則に上下する体はしゃっくりあげているからなのか、他に理由があるのか。


 声をあげて泣き出した様を見て、母親は手を振り上げた。


「外で泣くなって言ってるでしょ! また私が何かしたって言われるじゃない!」


 乾いた音がして、子どもが床に倒れる。


 さらに声をあげて泣くかと思えば、袖で目元をぬぐうとにっこりと笑って見せた。


 母親が金切り声をあげる。


 子どもの肉の少なそうな頬は赤くなっていた。


「なに? なによ!? 何がそんなにおかしいの! 笑わないで、笑うんじゃない!」


 もう一度、乾いた音が響く。


 周囲に人間はいるはずなのに、誰もそれを止めようとしない。


 誰も、それが間違ったことだと主張する者はいない。


 ただひそひそと、ひそめきれていない声が聞こえてくるだけ。


「あんなこどもに」


「なになに? 虐待? 警察呼んだ方がいいの?」


「やめときなよ。勘違いだったらあたしらがなんか言われるんだ。そのうち、店の人が来るでしょ」


「おかし一つくらいいいじゃないの」


「あ、あの人、こないだ言ってた人だよ。行き過ぎた教育ママってやつ。

 あの子もかわいそうにねぇ。見て、ガリガリじゃないの」


「必要な栄養素とカロリーはとらせてるから問題ないって、この間も心配した先生に怒鳴ったんでしょ?

 あれ見ると、ほんとかねぇ」


 ひそひそ、ひそひそと。


 声はいくらでも届くのに、子どもに差し伸べられる手はない。


 母親を諫める者も出てこない。


 周囲で交わされるひそやかな声に気づいた母親ははじかれたように顔をあげて、肩を震わせる。


 ぎり、と歯が軋む音がした。


「……っ!! あんたのせいよ」


「おかあさん?」


「あんたのせいよ! もう知らない! 一生そこで泣いてればいいわ!


 どうせあんたも、その方がいいんでしょ?! どっかの優しい人見つけてお菓子買ってもらえばいいじゃない!


 私が母親じゃなくたっていいんでしょ?! 他の人が母親の方がいいんでしょ! だったらそうしなさいよ!

 

 私はもう帰る! あんたは勝手にしてればいいわ!」


 こんなに頑張っているのに。


 こんなにやってあげてるのに。


 そんな言葉が聞こえてきそうな、目につくもの何もかもを責め立てるような声だった。


 呆然としている子どもに背を向けて、駆け付けた店員に買い物かごを押し付けて、母親は遠ざかっていく。


 その場に尻をつけて座り込んでいた子どもは、何かに気づいて慌てて立ち上がった。


「お、おかあさん、まって、おかあさん」


 今にも声をあげて泣き出しそうなのに、それをすんでのところで堪えている。


 ぐしゃぐしゃに歪んだ顔は涙で濡れていたが、母親を呼ぶ口から嗚咽は漏れない。


 痛ましい、とはあぁいうものを言うのだろう。


「おかあさん、おかあさん!」


 頭に血が上ったらしい母親は、必死に追いかける子どもを振り返ることもしない。


 周囲の視線が突き刺さる。


 ひそめられた会話が耳に流れ込む。それを振り払うように、母親は前だけを見ていた。


「まって、まってください。おかあさん、まってください。おねがいします、まってください」


 オレでもわかる。


 あれは、決して母親を呼ぶ子どもが言うようなことではない。


 そう言わなければならないと、決められているような気配すら感じる。


 オレが動かずとも、子どもが走るのと同時に光景は切り替わっていく。


 スーパーから出て、家の前につくまで母親は一切振り返らなかった。


「おかあさん」


「……なに」


「わがままいって、ごめんなさい。おかしがほしいっていって、ごめんなさい。


 ほかのおかあさんのはなしをして、ごめんなさい。


 ないちゃってごめんなさい。わらって、ごめんなさい。


 もう、わがままいいません。おかしもほしがりません。ほかの子のおかあさんのはなしもしません。


 なきません。わらいません。だから、おかあさんでいてください!」


 泣いていないのだと証明するように、落ちる前に涙をぬぐって。


 自分が悪かったと認めて謝罪を繰り返し、二度は繰り返さないと誓って。


 自分がすべて悪いのだと声に出して、必死に母親を求めるその姿は到底理解できるものではなかった。


「……わかったわよ。そうまで言うなら、お母さん続けてあげるわ。


 さ。家に入って、宿題終わらせなさい」


「はい!」


 歓喜の涙も笑みも拭い去って、子どもは家の中へ入っていく。


 母親はしょうがないわね、と言いたげな顔でその後ろをついて行った。





 目を開ける。


 溶かされた光の膜の欠片が上に流されていく。


 姿が見え始めた人間の体を強く引き寄せる。


 これが何であれ、オレはこれを守らなければならないことを思い出した。


「……だからどう、というわけでもないが」


 誰かはわからずとも、それがわかれば問題はない。


 ここからこれを連れて出るのは当然として。


「今だけは、何もない闇のうちに眠れ」


 この何もない場所で、どこにもつながらない闇の中で。









 壁際の燭台にともされた火の揺らめきにあわせて影が躍る。


 薄暗い座敷牢の奥から響くけたたましい声を聞きながら、ハジメは穏やかな笑みを浮かべていた。


 その柔らかな視線の先には、大口を開けて膝を叩いているやせこけた少年がいた。


「しかし、随分とはしゃいでいるね。もう少し落ち着いてもいいんじゃないか?」


「昨日の飯がゲロまずでよ! まぁこうなってから飯がうまかったことなんざ、一度もねぇけどなぁ! 鬼でも食ってやろうか!」


 小さく心もとない明かりが照らす闇の中、変色した瞳がらんらんと光っている。


 大きく開かれた口からは尖った牙がのぞいていた。


 少年の両耳につけられた大きな勾玉の飾りが笑い声に合わせて揺れている。


「やめておきなさい。あれは慎二だからできることだ。お前が鬼食いをすれば、あちらに転げ落ちるだけだよ。


 だからこそ、人間の食事をとることがお前をこちらにつなぎとめる楔となっているのだ。どれほどの苦痛があろうとも、欠かさずとりなさい。


 心まで正真の鬼に成りたくはないだろう?」


 慈愛が込められていると錯覚しそうな声に、しかし返ってきたのはあざけるような笑い声だけだった。


 炎が燃え上がる瞳に睨まれて、ハジメは少しだけ目を細めた。


「ハハハッ! そうかよ、知ったこっちゃねぇってか! そうだろうな! そうだろうよ!


 お前らにはわからねぇだろうよ! わざわざくそまずい飯持ってこられて食わされるなんざ、人間様には一生ねぇだろうよ!」


 致命的にかみ合わない会話を阻むものはなく、敵意すらふくんだ笑い声が耳朶を打つ。


 いたいけな呪詛をいなしていたハジメの背後の戸が開く。


 風が吹き込んで影が揺れた。


 閉ざされた牢獄に入ってきた黒子は、牢の奥から響く笑い声に震えながらそっと次期当主に耳打ちをする。


 自分と相対しても眉一つ動かさなかった男が顔色を変えたことを、少年は目ざとく見つけていた。


「慎二が? ……わかった。茨木、私は行かなければならない用事ができた。これで失礼するよ」


「どうしたよ、ハジメサマ? 血相変えちまってさ。


 あ、さては大事な大事な慎二クンになんかあったのかぁ? はっは! ご愁傷様なこった!」


 穏やかな表情にかすかな不快感が混ざる。


 やっと自分を見た男の目に、感情らしきものが見えて少年はケタケタと嗤った。


 もっと崩したい。もっと、もっと! と言葉を投げつけようと頭をめぐらせる。


 音もなくハジメは立ち上がる。


「九州に連絡を。阿久良あくらに力を借りる」


「あぁ? なんだよ、図星か? ハッ! 慎二クンも大したことねぇなぁ! ……おい、なんか言えよ。


 聞こえてんだろ! なんか言えよ! なぁ、おい! ハジメサマよぉ!


 ……ハジメ! 無視してんじゃねぇよ、ハジメ! なんか言えよ! こっち見ろ!


 おい、おい! なんか言えって言ってんだろ!」


 ハジメの目が少年からそれる。


 刹那に浮かんだ感情も、ろうそくの火を吹き消すように消えたていた。


 光の届かない奥から伸びて来た手が格子を掴もうとして、しかし激しい音を立ててはじかれた。


 雷に打たれたように焦げた指を握り締めながら、その目に朱色を混ぜて吠える。


「ハジメ! 聞こえてんだろうが! こっち見やがれ! なんか言え! ハジメ!」


「茨木。また会いに来るよ。今度は御厨様も一緒にね」


 座敷牢から出るその間際、ハジメがかけた言葉は少年には届かなかった。






 夏が来るよ。

 声が、聞こえた。


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