影におびえる 中編③

 放課後。スーパーで食料や生活必需品を買い込んだ帰り。重い荷物を引き受けた大哉だいやこうは何かお礼をしなければ、と考えていた。


 しかし、今すぐに何かできることと言えばそんなに多くはない。

 ひとまず、思いついたことを言ってみることにした。


「手伝ってもらっちゃったし、ご飯食べてく?」

「……え」


 デートに誘われた時同様、なんの気負いも照れもなく放たれたお誘いに大哉の心臓は裏返りそうになった。


 おひとり様個数が決められた商品を多く獲得するための頭数のために誘われたお買い物デートだったが、それでも女子の先輩と放課後一緒に過ごすという稀な経験をした。


 その上、さらに手料理まで振舞ってもらえるとは、いったいこの後自分には何が襲いかかってくるのだろうかと不安になりさえする。


「あ、無理だったらそれでいいよ! アタシが一人でご飯食べたくないだけだしさ。やっぱ人と一緒に食べた方が楽しいし、おいしいじゃん?

 だから、大ちゃんがよかったらどうかなぁって。タイムセールに付き合わせちゃったしね」


「ぜひ、食べさせてください」


 いつもの明るい笑みとは違う、どこか秋の風を思わせる笑み。それに撃ちぬかれた心が、気づけば勝手に了承の言葉を蹴りだしていた。


 内心で頭を抱える大哉とは裏腹に、香はそれは嬉しそうに笑って張り切ってつくるからね! とキッチンに飛び込んでいった。


「とりあえず、母さんに電話入れるかぁ」


 符ではなく携帯を取り出して、電話をかける。驚くからこっちにして、と母に言われた日から大哉は母に連絡をするときは携帯を使っていた。


「もしもし? 桃太郎、どうしたの」


「母さん、おれ大哉って名前があるんだけど。……今日の夕飯、平木先輩の家で食べさせてもらえることになったから。夕飯いらない。帰るのもちょっと遅くなると思う」


 電話の向こうで、何かが割れる音が響いた。


 とっさに携帯を耳から離した大哉は、スピーカーにしていないのに普通に聞こえる音量で大騒ぎしている母親に肩を落とす。


 騒ぎを聞きつけた祖父が乱入してくるまで、どれくらいかかるだろうかと遠い目で考えていた。


 電話を終えて、自由にしてていいよと手伝いを断られ、大哉は暇を持て余していた。

 と、不意にキッチンに立って背を向けている香が誰かに向けて話し始めた。


「うん、そうなの。桃園大哉くん。一個下の後輩でね、ほら、アタシ五月くらいにトラックにはねられたじゃん? その時救急車呼んでくれたんだって。

 ■■■■■、もうケガなおってるし大げさすぎー。大丈夫だって。ねー、■■?」


 頭の芯が冷える。大哉は唇を噛みしめて、そっと廊下に出た。後ろ手にドアを閉めてその場で膝を抱える。


 部屋に漂っている忘却の香に気づかなかったわけではない。香の今の状態を知らなかったわけでもない。


 それでも、あんなに楽し気に、幸せそうな声でいもしないものと対話を重ねているとは、知りたくなかった。


「ほんと、おれって最低だよなぁ。どの面下げて食べさせてください、だよ。先輩あんなにするの、止めなかったくせにさ。今さら、何しようってんだよ、おれ」


 謝罪は言葉にできない。ただ胸の中に重く鉛のような何かが沈んでいくだけ。


 数分ほど、そうしてじっと黙っていた。大哉がいないことに気づいた香が呼ばなければ、もう少しそうしていたかもしれない。無理矢理区切りをつけて、整理できていない気持ちに蓋をして。


 大哉は廊下から部屋へと戻っていった。





 大量に買い込んだ卵を惜しげもなく使ったオムライスを前にして、大哉は思わず感嘆の声をあげる。

 オムライス。飲食店でしか食べたことのないそれが、堂々と一般家庭の食卓に並んでいる。


 心が躍らずにいられない。自然と目を輝かせてほおを緩ませている後輩に、香は大げさだよと笑った。


「大ちゃん、オムライス初めての人?」


「いや、ファミレスとかで食べたことはあるんすけど、家でこうやって立派なやつが出てくるのは初めてっす。すごいっすね、コウちゃん先輩天才なんすか?」


「ふふん! そんな素直でかわいい大ちゃんには、とっておきのプレゼントをあげましょう!」


 香は高らかに宣言すると、キッチンに置いてあったもう一皿のオムライスを持ってきた。しかし、それは机の上に堂々と置かれているものとは様子が違う。


「ま、まさか! それって!」

「そう! これこそアタシの努力の結晶! ナイフで切ってトロトロ半熟卵をチキンライスの上に広げるオムライス!」


「うおー!!」


 ケチャップで味付けされたチキンライスの上に静かに乗っているプレーンオムレツの形をした卵。


 その中身はトロトロの半熟状態で、ナイフで切れ込みを入れることで広げてオムライスにするのだ。まさに、その卵の中には人々の夢と希望とワクワクがつめ込まれている。


 目に見えてテンションが上がった大哉に、こちらを進呈しましょう、と芝居がかった調子でワクワクオムライスを食卓に置く。


「こ、こんないいものを、おれに……?!」

「もちろん! バイト代、みたいな感じでありがたく受け取りたまえ! さ、食べよっか大ちゃん!」

「うっす!」


 食卓の上にはオムライスと、ベーコンと玉ねぎのコンソメスープ。そして、千切りキャベツとプチトマトのサラダが並べられている。


 普段和食しか出てこない家庭育ちの大哉には、すべてが輝く異世界の料理に見えた。


「では、いかせていただきます!」


 そっ、とナイフを卵の上で滑らせる。引っかかりもなくなめらかな感触だけを伝えて動くナイフが通り抜けた後は、半熟の卵が流れ出す重みでオムレツが左右に開いていく。


 奇声をあげながら顔をキラキラと輝かせている大哉を見ながら、香は頬杖をついた。こういう反応が見たくて作ったのだ。頑張ったかいはあった、と満足げに笑う。


「いただきます!」

「いただきます」


 幸せそうに、無心でスプーンを動かす大哉を見ながら香もオムライスをスプーンで切り出す。


 ケチャップの酸味と卵の甘み、チキンライスのうまみが合わさってやはりおいしい。冷凍のミックスベジタブルを入れたのは正解だった、とコーンの甘さやグリンピースの触感を楽しみながらしみじみと思う。


 前を見れば、大哉はすでにオムライスを半分程食べ終わっている。がっつくように勢いよく食べているのに、皿の中はきれいなものだった。


 スプーンや食器の使い方がちゃんとしてるんだろうなぁ、と思いながら香はゆっくりと熱いスープをすすった。


「大ちゃん家はオムライス、出ないんだねー」


「っす。うち、爺さんが日本人なら和食を食べろ! な家なんで。母さんもそれに従ってる感じだし、洋食も中華もあんま食べないっすね」


「え、カレーとかもダメってこと?! お母さんめっちゃ大変じゃん!」


 流しで食器を洗っている大哉の横で、香は和食オンリーの献立の大変さに思いをはせた。


 とてもできる気がしない。どんぶりなどでごまかすこともできるだろうが、家庭の味方のカレーに頼れないのは痛い。


 大ちゃんママ、頑張ってるんだねぇ。と、しみじみこぼされて大哉はどう返事をしたものか困っていた。


 確かに、大変そうだと思ったことはある。毎日食事を作るのはやはり大変だろうし、それが毎度一汁三菜のそろった膳を出してくるとなったら、その労力も相当だろう、と今は思う。


 が、それを継続する理由が「桃太郎も和食しか食べなかったから」だと知ったら、どんな反応が返ってくるのか考えそうになってやめた。


 そりゃあ、食べたことないだろうよ。いつの時代の人だと思ってんだ。

 そんな風に反論しても、状況が改善するわけでもなく。


「まぁ、母さんはおれのためにやってるんだってモチベはあるみたいなんで。そこらへんは大丈夫なんじゃないっすかね。米とみそ汁と小魚、みたいに手抜きの時もあるんで」


 桃太郎が実際に食べていただろう食事を再現してみたの! とやけに上機嫌で言われたときは、あやうく膳をひっくり返して箸を投げつけそうになったが。


 あれは小学校何年の時だったっけな。いやぁ。ガキだったなぁ、おれ。


 などと現実逃避しながら、泡まみれになった食器を水で流して水切りかごに入れた。溝をつたって流れる水が水滴となって流しに落ちていく。


「さってと。コウちゃん先輩、皿洗い終わったっすよ」

「ありがと。時間けっこうすぎてるけど、大丈夫?」


 香が壁にかけた時計を心配そうに見る。確かに、日が完全に沈んで外が暗くなる程度には時間が過ぎていた。


「あー、ほんとだ。けっこう時間過ぎてる」


 投げて置いてあったカバンを持ち上げて帰る準備を始めた大哉に、香は何か言いかけて慌てて口を閉じる。何も言ってはいけない。それだけは、誰に言われなくてもわかっていた。


「じゃ、今日はほんとにごちそうさまでした。今度また、なんかお礼するんで」

「アタシがお礼したのに、そのお礼って変じゃない?」


 玄関で靴を履きながら言われた言葉に苦笑が浮かぶと同時に、どうしようもない嬉しさが顔をのぞかせる。香はそっと後ろ手に組んだ手の甲をつねってそれをごまかした。


「そんなことないっすよ! あのオムライスにはそれだけの価値があるんす! それじゃ、また明日学校で! お礼何がいいか考えといてくださいね!」


「うん、また明日!」


 名残惜しさを遮るように、玄関のドアが閉まる。鍵を閉めながら、香は急に静かになってしまった家の中にぽっかりと胸に穴があいたような心地になるのだった。

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