影におびえる 中編②

 バスケットボールの弾む重い音が響く。バスケットシューズと体育館の床との間に生じた摩擦が高い音をたてた。


「みらん!」

「オッケ!」


 短い言葉の間には、確かな信頼が構築されている気配がある。チームメイトからパスを受け取った小山みらんは、楽し気な笑みを浮かべてボールをついた。


 立ちふさがるディフェンスをどう通り抜けるか、瞬きの間にルートを見出す。そして、体を起こしたと思えば次の瞬間には深く沈み込んで駆け出した。


 ボールを左右に振り、足の間を通してフェイントを仕掛け、時には一回転して相手の手を躱し。甲高い摩擦音とボールの弾む音、そして少女たちの高い声が響く。


 ちら、とみらんは目を横にずらす。隣で走っているチームメイトと目があった。


「あやの!」

「はいはーい!」


 前方にワンバウンドパスを出す。ディフェンスの間をすり抜けたチームメイトがそれを拾い、そのままゴールに向けてボールを投げる。


 滑らかな曲線を描いて宙を舞ったバスケットボールは、軽い音を立ててゴールを潜り抜けた。


「よっしゃ! あやのナイッシュ!」

「みらんも、ナイスパス!」


 高らかな音を立ててハイタッチを交わし、みらんは攻めに転じる相手チームの動きに合わせて走り出した。


「はぁー、つかれたー」


 練習も終わり、部室のイスに座ったみらんは汗を拭いていた。短く切りそろえられた髪の毛先から汗がしたたり落ちている。着替えながらあやのはそりゃあね、というような笑みを浮かべた。


「みらん、今日はめっちゃ走り回ってたもんねー。先輩たちも最後の大会で運よく勝てたからって気合入りまくってるし」


「そりゃね、勝てたら熱も入るってもんでしょ。私は先輩たちがいる間にゲームいっぱいしときたいだけ―。どうせ夏休みは基礎練ばっかになるんだしー。あー、ずっと先輩たちいてくんないかなぁ」


 受験あるんだし無理だと思う、というあやのに、だよねーと返す。


 みらんにとってバスケはゲームができるから面白いのであって、基礎練習などは苦痛でしかない。次の大会で終わるだろう先輩たちとのチームは、次は自分たちの代のチームへと変わるのだ。


 そうして面白くもないつまらなくて面倒な基礎練習が始まる。ひたすらフォームの練習だとか、パスの練習だとか、筋肉トレーニングだとか、走り込みだとか。


「あーあ。なんか面白いことないかなぁ。……あ」


 着替え終わり、部室の鍵を閉める。重いリュックに背中を丸めながらぼやいたみらんの視界に、ふとデコボコな二人組が見えた。


 突然立ち止まったみらんを、数歩先に行ったあやのが振り返る。面白いものを見つけた、と満面の笑みを浮かべたみらんの示す方を見て、納得したような顔をした。


「あれ、不思議ちゃんと大人DKだよね。付き合ってるってホントだったんだ」

「ねぇ、ちょっとついて行ってみない?」


「ごめーん。あーしこの後塾なの。みらんはこのまま追いかける感じ?」

「もち!」


 新しいおもちゃを貰った子どものような目をしたみらんは、心底楽しそうで胸を躍らせている様子だった。


 あやのは後ろ髪を引かれる気分で、どうだったか明日教えてーとだけ言った。デコボコな二人組の行く方とは逆方向にある塾へ向かう後ろ姿を見送って、みらんは少し前を行く二人を見る。


「あの不思議ちゃんに彼氏、ねぇ。平木ひらぎが仲良くしてるだけであれなのにさぁ。おかしいよね」


 デコボコ二人組のうち、小さい方はみらんのクラスメイトだ。小、中学校が同じで、高校も同じになってしまった大して交流もない顔見知り。


 名字が変なやつ、と名前すらろくに覚えていないような。そんな遠い関係。


 その隣のでかい方は、みらんもよくは知らない。ただ、噂だけはいくらでも回ってきた。


 成人してるだとか、ヤクザだとか、変態だとか、女子高生に声をかけてホテルに連れ込んでるとか、目隠しをしてる中二病なのだとか、いろいろ。


 その中で一番、みらんたちの関心を引いたのは「人を殺したことがある院に入ってた不良」というものだった。あと、「二年の不思議ちゃんと付き合っている」というのも中々。


「ま、絶対になんかやってるんだろうけど。てか、不思議ちゃんあぁいうのがタイプなの意外。もっとこう、大人しいやつとか選ぶと思ってたのになぁ。それともおどされてるとか?」


 そうだったらおもしろいよね。


 そう言って友達と会話したことを思い出す。


 みらんは二人を見失わないように、けれど気づかれないようにそれなりの距離を取って後をついていく。遠目に見ても、二人には恋人のような空気は感じられなかった。


 手をつないではいるが、そこに甘酸っぱい気配はない。照れてるだけだと思っていたが、どうにも違和感があってみらんは首を傾げた。


 今まで体験した、あるいは見聞きした自他の恋愛模様に思いをはせる。


 それをかんがみても、やはり二人の間にある空気は付き合っている者同士の物と思うには違和感があった。なんというか、邪推が入り込む余地すらない。そんな気分にさせられる。


「あれじゃ父親に手をつながれてる娘みたいじゃん。もうちょっといい感じになってると思ったのにー」


 下唇を突き出して不満を漏らす。みらんとしては、もうこの時点で二人の後をついていく気は失せていた。


 こんな味気ない、面白味もないものを見るためにこっそり後を追いかけているわけではないのだ。もうやめて帰ろうか、と思い始めた時。


「……? ここ、こんなだっけ?」


 夕方になってもまだ白いままの太陽が照らす道。いつも通っている道で、ごく普通の歩道だ。


 焦がされたアスファルトの上の空気が揺れている。前を行く二人の姿がくっきりと照らし出されていた。


 そう。この季節、この時間帯ならばここは蝉の声があふれる日差しがきつい、嫌になるほど暑い場所であるはずだ。部活帰りの生徒がまばらに見られて、車がいくつも通り過ぎていくはずだ。


 なのに、今この場所はとても暗い。


 日差しが遮られたわけでもなく、空を見れば雲一つない青空に太陽が輝いている。日差しは変わらずそそいでいて、肌が焼かれる感覚すらある。なのに、この場所は暗い。


 何か、言葉にできない予感にみらんは息をのむ。


 熱せられて鼻の奥を焼くような風ではなく、突き刺さるような冷たい風が吹く。蝉の声どころか何の音もしない。


 先ほどまで聞こえていた車のタイヤがアスファルトを滑る音や、エンジン音も消えていた。


 それどころか前を歩いている二人以外、車も人もいなくなっていた。


「なに? なに?」


 ぞわ、と寒気が走る。思わず立ち止まってしまったみらんの足元で、影が揺れる。


 自分がどこか、遠いところに迷い込んでしまったような。そんな心が削れて細くなるような予感に、震えが止まらない。リュックの紐を強く握りしめた。


 音が、聞こえない。自分の心臓の音でさえ、定かではない。走ったわけでもないのに乱れる呼吸だけが、はっきりと認識できた。


 影が、揺れる。


 みらんは、自分の膝が力を失くしたのを感じた。尻もちをついた痛みも恥ずかしさも感じる余裕はない。


 影が、揺れている。


 逃げなければ。今すぐ。立ち上がって、逃げなければ。


 そう思うのに体は何かにつながれたようにその場から動けない。地面に縫い付けられたように、指一つだって動かせない。


 壊れたブリキのロボットのように首を動かして自分の体を見れば、体に黒い何かがいくつもまとわりついている。そして、黒い闇が揺れながら集まってきている光景も、見えてしまった。


「ひっ、や、やだ! やだやだやだやだやだ!! なにこれ! やだ、いや、いやあぁぁぁ!!」


 目を見開いて、揺れる影から目をそらせずに絶叫する。まとわりつく闇が数を増す。


 半狂乱になって叫ぶみらんを拘束し、揺れる闇は静かにその体を飲み込もうと伸ばした手を引き戻し始めた。


 ずぶり、ずぶりと得体のしれない感触もない黒に飲み込まれていく。


 闇が触れる部分から熱を奪われ、凍らされるように冷えていく。


 動かない体で抵抗しようとするみらんを嘲笑うように、闇の手が喉に張り付き、あごをつたって顔を覆いつくそうと伸びてくる。その冷たさに、感触の軽さに体の内部がすくみ上る。


「いやああぁぁぁぁ!」

「小山さん!」


 最後の力で悲鳴を上げたみらんが、闇に沈み切るその直前。闇が一瞬硬直した。


 自分の体が力任せに引き上げられる衝撃と、まとわりついていた闇がはがれていく感覚。そして、開いた視界の端にうつった組紐を何重にも巻き付けた細い手首。


 それらを正確に、何がどうなっているのかを把握しきる前に体が宙に投げ出される恐怖に悲鳴を上げた。


 宙を舞う浮遊感の後、アスファルトにたたきつけられて痛みにうめく。擦り傷や打ち身ができただろう体のあちこちの痛みに涙を浮かべながら、体を起こして。


「小山さん、逃げて!」

「言っている場合か! くそっ、虫のしらせの守護がさっきので切れた。先輩!」


 なす術なく闇に飲まれていく二人組が見えた。呆然と、その場に座り込んだままのみらんに少女は安心したような顔を見せ、焦った様子の男と共に影に飲まれて消えた。


「……は?」


 肺に押し出された空気がこぼれ出る。


 傾き始めた太陽の、まだ刺々しい光が降り注ぐ。目が痛くなるほどの光と、むせかえるような暑さ。そして、騒々しい蝉の鳴き声。


 道行く生徒たちの白い目が、歩道の真ん中に座り込んでいるみらんに突き刺さる。車のクラクション音が鋭く響いた。


「なに、いまの」


 影は、何事もなかったようにただそこにあった。

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