影におびえる 中編①
この世には影があふれている。
昼過ぎのきつい日差しが降り注ぐ外の明るさと、部屋の薄暗さがアンバランスさをかもし出す時間。カツカツと頭に響く硬い音が絶え間なく響く授業の中頃だった。
教室の中、廊下、窓の外。そして、自分自身。
どこを見ても影がある。そこにずっと、ずっと前からあったのだと気づかされるほどに。今まで気にもとめていなかったことが信じられないほど、この世には無数の影が存在している。
そんなこの世の常識を、今初めて知った。
黒板に落ちている教師の手の影をじっと睨みつけるあずさは、その熱心な態度とは裏腹に授業の内容を何一つ聞いていなかった。
全身の筋肉が硬直して、呼吸は浅く。ただひたすらに鬼気迫る様子で動き回る影を追い回していた。
エアコンなどついていない化学室は、サウナのようだった。開け放った窓から入ってくるのは嫌になるほど元気が有り余った蝉の声だけで、蒸した部屋の空気は動きもしない。
これでは外の日陰に入った方が涼しいかもしれない。誰かの頭の中で、そんな比較しようのない思い付きが浮かんで消えた。
じっとりと汗をかいた肌が机に張り付く感触。
教師の手の動きに合わせて黒板を飛び回る影。
なぜか大きく聞こえる自分の心臓と呼吸の音。
それらすべてが明確に感じられるのに、どこか遠いところの出来事のようにも感じられる。その証拠に、教師の声は聞こえているのにあずさの頭の中でその内容はとどまらず流れていく。
実験の手順を書き記していた教師の手の動きが止まる。実験机の上に置かれたままだった名簿を開いて、昨日は誰まで当てたかな、と死刑宣告のような呪文をつぶやいた。
生徒たちの間にささやかな緊張が走る。
どんな内容であっても、教師に当てられるという状況は生徒にとって居心地のいいものではない。
ぼんやりと、昨日は藤原くんだったから今日は私だったな、と思う。その通り、教師は名簿をたどっていた目をあげて、あずさにぴったりと視線を合わせた。
コンコン、と軽い音を立てて黒板がたたかれる。
「
「……」
「御厨さん?」
呼ばれている。
あずさは自分が呼ばれていることを認識していた。が、動けない。声が出せない。今動いたなら、その瞬間に何かが起こってしまうような予感に囚われて逃げられない。
瞬きを一つもせずにじっと黒板を睨みつけているあずさに、教師はちらとシャーペンではなく手首を握り締めている手を見てため息をついた。
すぐさま名簿に目を落として他の生徒を当てる。教師も、生徒たちも、どこか慣れているような雰囲気があった。
「……では、山ノ井君、わかりますか?」
「はい。急激なふっとうを防ぐためです」
「その通りです。急激な沸騰による事故などを防止するため、試験管内の液体を熱する際は沸石を入れます。また、───」
流れていく。声が耳に入ってそのまま素通りする。
「御厨さん、今は手首じゃなくて筆記用具を握ってくださいね。……ここ、次の授業で実験の時に使うので覚えておくように」
親切な忠告も聞こえない。
ビリ、と痛みが走る。待ち望んでいたような、とうとう来てしまったようなおかしな思いで手首を見下ろせば、いつの間にか爪が深く突き刺さって傷ができていた。
そこに巻き付けられたお守りはまったく反応しておらず、傷ついてもいない。
にじむ血とじくじくとした痛み。それが、お守りによるものではなく、自分の手によるものだとあずさはしばらく理解できなかった。
浅く、息を吐く。
大丈夫なのだと必死に言い聞かせてくる理性に、その通りだと本能も理解している。しているのに、落ち着かない。浮かび上がってくるありもしない予感を振り払えない。
チョークが黒板を叩く音がする。
開け放たれた窓から蝉の声が入り込む。
密室で湯を沸かしているような空気が重くのしかかる。
風が恋しい。肌にねばりつくようににじんだ汗が思考の鋭利さを奪い取っていく。
「……?」
ふと、腕の一部だけが冷えているような気がして目を動かす。耳の後ろで血液の送り出される音が響いている。息ができているのかどうか、すでに分からなかった。
目が、動く。
手首からゆっくりと上に辿っていく。音がいつの間にか消えていた。爪でえぐった傷口がじくじくと痛む。ゆっくりと、カタツムリのように動いていた目が止まる。
視界の端に、黒い、影が。
「ひっ!」
突然イスを蹴り飛ばして立ち上がったあずさに教室中の視線が集まる。顔をこわばらせ、真っ青になって自分の腕を凝視している様子に尋常ではないものを感じたのか、心配そうな声が上がる。
「御厨さん、どうかしましたか?」
「……あ、えっと」
教師はどうやら居眠りをしていたのだ、と結論付けたらしい。鼻を鳴らすと教科書へと視線を落とす。
「特別に途中退室を認めます。顔を洗ってきなさい。……さて、どこまで話したかな」
ぐるりと世界が回る。もう何が何だかまともに判断できる気がせず、あずさは倒れたイスを直してから通路に出た。
どこか不確かな床の感触を蹴りながら、化学室から廊下に出る。
ドアを閉めて振り向けば、教室の中と同じかそれ以上に無数の影が揺れていた。
息を吸い損ねる音がした。
「おばあちゃん……」
手首を握り締める。だが、お守りは何も反応を示していなかった。なのに、手首が痛い。
ヒリヒリと痛みがあるのに、危険は何もないのだとお守りが告げている。痛みがあるということは危険があるという事なのに、お守りは危険などないと明確に告げている。
世界が、ぐらりと揺れる。
暑い。
深く息を吸いこもうとしてむせる。委縮しきった肺はまともに空気を取り込めなくなっているようだった。
「大丈夫、大丈夫、大丈夫。あれは影。ただの影。影。鬼じゃない。鬼じゃない。危険じゃない。踏んでも大丈夫。歩いても大丈夫。何もない。何もないの」
廊下に小さくはない声が響く。閉め切られた窓の外で空気が目に見えるほどゆれている。
影を踏まないように、触れないように。踏むしかないときは慎重に、ゆっくりと。
そんなことを繰り返して、なんとか女子トイレについたあずさは手洗い場に手をつくと蛇口を思い切りひねった。ぬるい水が飛び出して、それを両手で受け止めて顔にぶつける。
「は、ひどい顔」
気がすむまで水を顔に浴びせて、いっそ頭からかぶろうかとすら思いながら蛇口をひねる。
水滴を落として止まった水から目を離して、目の前に置かれている鏡を睨んだ。そこにうつっている自分の顔色のひどさに、思わず乾いた声が飛び出して鏡にぶつかる。
手首に触れる。水がしみて痛むが、この痛みは爪がえぐった肉の痛みだ。お守りが警告を発しているそれとは違う。
このお守りを貰った日のことが頭に浮かんだ。
『あずさ、これをあげようね』
『これ、なに?』
『これはね、お守りだよ。あずさの近くに危ないものがいると教えてくれるお守り。長めに巻いてあげようね。
これをつけていれば、見えているものが危ないかどうか、お守りが判断してくれるからね』
祖母との会話が蘇る。しわの寄った手が器用に複雑な模様をえがきながら組紐を巻き付けていた。
『ねぇ、おばあちゃん。どうしてお守りをつけるの?』
『あずさを守るためだよ。御厨の血はどうしても鬼と関わることになるからね。このお守りが、危険なものを教えてくれるからね。ちゃんとつけておくんだよ。
外さなきゃいけなくなった時も、なくさないように気を付けて。本当はつけなくても何が危険なのかわかればいいんだけどね。それはおばあちゃんとゆっくり練習していこうね』
お守りを握り締め、あずさは目を閉じる。無理やり縮まっている肺に空気を取り込めば、鈍い痛みが胸を突き刺した。
「大丈夫。怖いものは、何もない」
無理やり、自分に言い聞かせる。汗と混ざったぬるい水が頬を伝ってあごから滴り落ちた。
お守りが反応していない以上、どれほど影に何かいるように思えてもそこには何もいないのだ。何も、恐れるようなものはない。
「よし、大丈夫。……大丈夫だよね、おばあちゃん」
震える声はどこか空虚な響きをふくんで、煙のように消えていった。
トイレに落ちる影が、揺れもせずにじっとたたずんでいる。
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