影におびえる 前編②

「おはよう、あずさ」


 部屋から出てリビングに降りれば、インスタントコーヒーのにおいが漂っている。何かの本を読んでいたあずさの父は、階段を降りる足音に顔をあげた。


 少し疲れがにじんだ声にあずさはあいさつを返す。


「おはよう、お父さん。……お母さんに、会えた?」

「会いに行きはしたんだけどね。会いたくないと追い帰されてしまったよ」


 苦笑を浮かべてもう少し待つしかないなぁ、とこぼす。古書の表紙をなでる手つきは優しい。


 その目には焦りや苛立ちは浮かんでおらず、平穏すら感じさせてくる。ずっと、あずさよりも長い時間を過ごしてきたのだ。こういうこともかなりあったという。


 母がいなくなった時、父はそう言ってあずさの頭をなでた。それでも胸は痛む。自分の非ばかり探してしまう。


 せっかく最近はケンカすることもなく穏やかな時間を過ごせていたのに、あずさがそれを壊してしまった。


「ごめんなさい。私が、おばあちゃんからもらった鏡を隠したりしてたから」


「あずさのせいじゃない。どのみち、いつかはこうなっていたよ。玄関の鈴がおばあちゃんからの贈り物だって気づいた時点でね。

 だから、あずさは気にしなくていいんだ。それよりもちゃんと眠れているのかい? 隈ができてるじゃないか。なにか悪い夢でも見たなら、お父さんが話を聞くよ」


 一歩、下がる。


 伸ばしかけた手を引っ込めた父親の困ったような目を見ることができず、あずさは逃げるようにシャワーを浴びてくると言い残して走った。


 きっちり穢れを禊ぐんだよ、と言葉を投げた父親はそそくさと浴室に消えた後姿に頭を傾ける。そして、古書にしおり代わりに挟んで置いた符を取り出して耳にあてた。


 脳内に直接響く呼び出し音が三回なったところでどこかにつながる感覚があった。浅く息を吸って、外行きの滑らかな声に喉のチャンネルを合わせる。


「もしもし。ハジメさん、また夢を見たようです。えぇ、聞きだそうとしたんですが、私には話してくれそうにないですね。

 おそらく今日中には大嶽のところに相談に行くでしょうから、よろしくお願いします。

 ……は、妻ですか。いや、お恥ずかしい。理解を得られるよう、努力は続けてきたつもりだったのですが。

 ……えぇ、えぇ。はい。わかっています。私が巻き込んだのですから、きちんとわかってもらいますよ。

 ……ふふふ、あなたほどではないと思いますが。誉め言葉として受け取らせてもらいます。それでは、また」


 符を耳から剥がし、息をつく。仕事先で何度も会っているとはいえ、やはり次期当主と話すときは薄氷の上を歩くような心地になる。


「母さん、あの子も巫女の力で悪夢を見るようになったようだよ。どうかあの子を守ってくれ。ぼくはもう、疲れたよ」


 コーヒーからのぼる湯気が小さく揺れていた。








 蝉が鳴いている。


 テスト期間も終わり、学生たちがのびのびと過ごす夏休みまでの短い期間。真夏日のごとき日差しが降り注ぐ屋上に人影はなく、影に避難している香たちしか出入りしていないようだった。


 ほぼ頭上にある白い太陽から降り注ぐ日差しがじりじりと肌を焦がし、頭を熱する。


「あずちーん、影に入んないのー? 日焼けするよー」

「うん、後でそっちに行くよ」


 まだ七月の初めだというのに、気温は真夏そのものだ。じっとりと肌に浮かぶ汗と、吹き抜けていく風の心地に目を細め、あずさは空を見上げた。


 目元に手をかざして影を作る気になれず、そのまま見上げたため視界が白く焼ける。目を閉じれば暗闇が落ちる。それすらも避けるべきだと、閉じそうな目を無理やり開き続けた。


 近くに感じる濃い青の空を見上げたまま風に吹かれる背中が、今にも消えてしまう。


 そんな予感に囚われて香は影の下から手を伸ばした。届くはずもないのに、あずさに向けて手をかざさずにはいられない。


「コウちゃん先輩、どうしたんすか? 御厨先輩に用があるなら呼びましょうか」


「いい、いい。そんなんじゃないから。たださ、あずちんがあぁしてると、いつの間にかどっか行っちゃてるんじゃないかって思っちゃうだけ。目を離せないっていうか、捕まえとかなきゃ! って感じになるっていうか。

 ……なんてね! ほら、こうやって手を向けるとさ、あずちんを片手でつかんでるっぽくなるから! それで遊んでただけ!」


「へぇー、コウちゃん先輩わりと子どもっぽい遊びするんすね。それならおれはあそこのサッカーゴールつまみ上げたいっすね。あ、あの倉庫もいいな!」


 きゃいきゃいと談笑を始めた二人から離れて、タケは空をかたくなに見上げているあずさの横へ向かう。


 何も言われていない上に、最近は避けられている気配すらあるが、何かあったことくらいは空気でわかる。香もそれがわかっているから、あぁして気にしているのだろうとあたりもつけていた。


 近づいてくる足音を拾った耳がかすかに動く。目が横に動いてタケを見つけ、明らかに張り詰めていた糸を緩めた。


「何かあったのか、先輩。顔色がよくないぞ」


 少し低い体温の指が目元をなぞる。それだけであずさは目を閉じることができた。自分でもわからないほど力の入っていた体が軽くなる。


 息を止めて必死に何かを睨みつけていたのを止めたことに気づいて、タケはもう一度目元の隈をなでた。


 夢でまた、何か見たのだろう。そしてそれは身近にあるものに関係していて、だから気を張り詰めていた。


 それを自分が解きほぐせる要素に成れているのならば、それは護衛として仕事ができているということだろうか。


 無意味な疑問を投げ捨てて手をはなす。


「それで、何があったのか話してくれるか? 先輩」

「タケさんは、どうして私を先輩と呼ぶんですか?」


「忘れたな。初めての学校だから、人間の真似事がして見たくなったのかもしれない」


 また空を見上げたあずさは、今度は目の上に手をかざした。何か考えていることがあるようだが、それを予測するのも面倒でタケは答えが与えられるのを待つ。


 数えて十数秒ほどの間を置いて、あずさは息を吸いこんだ。


「そうですか。……後輩は、先輩の言うことを聞くものですよね」


「そうらしいな。年功序列、だったか。どこにでもある話だ。退治屋の間にもあるぞ」


「タケさん、先輩命令です。私を助けてください」


 何を考えているのか、思考が読めない。


 先輩命令、というよくわからないものを宣言されてタケは困惑をはっきり顔に浮かべた。前髪が風に揺れて目隠しが小さくのぞく。


「先輩命令がなくてもオレは先輩を助けるし守るが、それでもその先輩命令をしたいのか?」


「タケさんだって、他人から私を守るように言われるよりも私から私を守るように命令させる方が、ケガした時とかの責任の追及先がはっきりしていいでしょう。だから、先輩命令です」


「……まったく意味がわからないな。理解もできる気がしないが、先輩がそれでいいならそうしろ。やることは変わらない。オレはそれよりも、いい加減先輩に何があったのかを知りたいんだが」


 わからないものからは守りようがない。


 投げやりで小難しい話をされた子どものような反応だ。あずさはちらりと自分とタケの影を目だけ動かしてみてから、ようやく足を動かす。


 その動作は見えずとも、足元を気にしている気配からだいたい何を見たのかは理解できてしまった。


「影か」

 鋭い指摘にあずさの目が泳ぐ。


「はい」

「いつからだ」

「よく、覚えていません。……一週間くらい前、だったかな」


 ごまかそうとしてごまかしきれず、無言の圧力に負けて白状する。実際は初期の過去の記憶だけの夢を含めればもう少し長いのだが、それはいれないでいいかと省いた。


 おそらくさばを読んだことはバレているだろう、と思うが訂正する勇気は出なかった。


「先輩。……次からは、もう少し早く教えてくれ。その様子だと、日ごとに夢の内容が悪化しているんだろう。

 夢の中で鬼に囚われれば一生目を覚まさないこともある。それは先輩も、先輩の周囲の人間も困るだろう」


「どう、でしょうか。よくわからないです」

「確実に平木香は取り乱すと思うが、オレの思い違いか?」

「う……はい。気を付けます」


 何か、引っかかるものがあるのにそれが何かを明確に言語化できない。これは理解できない面倒ごとだと放棄していいものか天秤が揺らぐ。


 が、すぐに結果は出てタケはその違和感を手放さずにいることにした。


『慎二、一つ忠告だ。護衛たるもの、対象者の些細な違和感も見逃さないことだよ』


 護衛役を正式に任命されたときにもらった、ありがたい小言が浮かんで消える。


 人間の思考は理路整然と筋道立っていることの方が珍しい。たいていは支離滅裂で、なぜそうなるのかよくわからない理論で回っている。


 御厨あずさもその例にもれず、むしろ人間らしい部分をやっと見た気がした。


 背中に突き刺さる視線を感じて、思わずため息が出た。これ以上あずさを独占してはまた険悪な空気になりかねない。


 今、これ以上の精神的な負担をあずさにかけるのはいい判断だとは言えなかった。


「後で話を……放課後、迎えに行く。教室で待っていてくれ」

「え、ここに集合ですよね。だったら自分で」

「いい。オレが行くまであまり動くな」


 助けてほしいんだろう。なら、オレの言うことを聞け。


 空耳だろうか。そう言われた気がしてあずさは大人しく頷いた。タケは、この暑さの中おかしいほど冷たくなった手を取って香たちが待つ影へと引っ張っていく。


 隠しようもなくこわばった指が何よりも雄弁にその心を伝えてくる。手を握る力を少しだけ強くする。


「鬼は今、ここにはいない。影の中にいる気配もない。お守りは反応しているのか?」

「い、いえ。何も」


 それでも身構えずにはいられないほどに、何かを見て刷り込まれている。これは現実の鬼の問題だけを解決するだけでは不十分かもしれない。


 そんな面倒な予感は、しかし駆け寄ってきた香の「女子の手をいつまでも握ってんな! 変態!」という難癖に吹き飛ばされてしまった。


「オレは変態ではない」

「成人男性が男子高校生してるだけでフツーに変態ですけど?!」


 思い切り不服だ、という顔をしているタケに容赦なくトゲを投げつける香。そして、それを遠い目で見守るだけでもう止めに入ることもやめてしまった大哉。


 そのいつも通りの、いっそ涙が出そうなほど変わらないやり取りに、あずさはようやく影の中へと足を踏み入れたのだった。

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